●ブルース・フィンク『後期ラカン入門』が届いたので、パラパラみていた。それで何となく思いついたのだけど、ラカン特有の、話をわざわざ分かりづらくするために出しているとしか思えないような変な記号(マテーム)は、キャラとして考えるとけっこう分かりやすくなるのではないか。
たとえば「四つのディスクール」の話に出てくる「S₁」、「S₂」、「a」、「(正しくは「S」が射線「/」によって消されている)」を四人の人物として考えてみる。「S₁」を、家父長制的な、暴君のような父として、「S₂」を、律儀で真面目で合理主義者だけど退屈な人として、「a」を、ミステリアスな美女/美男として、「」を、公には存在していないことにされている、非理性的で分裂した狂人として考えて、それぞれのディスクールは、これらのキャラがどのように関係する場面になっているのかで決まる、と考えると、かなり分かりやすくなる気がする。
(四つのディスクールとは、「主人のディスクール」「大学のディスクール」「分析家のディスクール」「ヒステリー者のディスクール」で、それぞれ「四人のキャラクターの配置」が違っている。)
ここで面白いのと思ったのは、ラカンは「科学」を「大学のディスクール」ではなく「ヒステリー者のディスクール」に分類しているのだと書かれていること。



上の図で、横棒の上が顕在的な場面(「エージェント」が「他者」へ語りかけている)で、下が潜在的な場面(語りが暗黙的に準拠する隠された「真理」と、その語りが結果として――無意識のうちに――産む「生産物」)となっている、と読める。
上の図からすると、「大学のディスクール」とは、主役であるエージェントの位置にいる真面目な「S₂」が、あくまで理性的に、理路整然と美女「a」に語りかけている(説得し、口説いている?)場面だと言える。だが、表面的には合理的に聞こえるその語りは、そこから疎外(分離)されたものとして、無意識としてのどろどろした狂気()を生産してもいる。そして何より、うわべでは合理的で「話の分かる人」風を装って語っている「S₂」だけど、隠された真理の位置にあるのは権威であり暴君である「S₁」なのだ。つまり「S₂」は実は「S₁」に取って代わりたいのだった。彼にとっては本当は、知(合理性)ではなく権威こそが真理であり、それを欲しているのだ(無意識は、S₁をこそ求めている)、ということになる。合理主義を装った権威主義。だから「大学のディスクール」はかなりイヤな感じのディスクール(場面)となっている。
「ヒステリー者のディスクール」は、疎外され、分裂した非合理的な狂人()が主役(エージェント)で、彼(彼女)が父であり権威である「S₁」にくってかかっている場面だと見立てられる。世界の外へと疎外された狂人が、世俗内の権威や象徴的秩序を繰り返し糾弾して揺さぶりをかけることを通じて、秩序の書き換えを要求し、その結果として(秩序が再編成され)合理性や知(S₂)が生産されるという図式(場面)になっていると読める。そしてこの狂人にとって真理の位置には美や官能(a)がある。つまりこの場面(ヒステリー者のディスクール)では、一見非合理的で理不尽な、美や官能を根拠とした(とはいえ、美や官能は、大学のディスクールにおける権威と同様に「隠されている」)狂人の権威への糾弾こそが「知」を生産する(合理性が官能に支えられている)ことになる。
(後期の)ラカンによれば、科学とはこのようなディスクールで、それは「大学のディスクール」とは対極にある(すべてが反転している)ものだということになる。
(勿論、ここでは粗くて雑な「思いつき」の話を自分勝手にしているだけで、『後期ラカン入門』を正確に要約しているわけではないです。まだちゃんと読んでいないし。)