07/11/14

●『グエムル 漢江の怪物』(ポン・ジュノ)をDVDで。驚いた。これはすごい傑作。ぼくは現代アメリカ映画をちゃんとは観ていないので挙げる名前が貧しいのだが、この映画は、トニー・スコットより、サム・ライミより、ティム・バートンより、そして黒沢清より、断然凄い。この映画と肩を並べて比較できるのは、スピルバーグの『宇宙戦争』くらいではないだろうか。おそらく、ポン・ジュノは、映画も沢山観てはいるだろうけど、アメリカ映画よりも日本のアニメの方がずっと好きだというような人だと思う。(なにしろ長編第一作目が「フランダースの犬」なんだし。)しかしそうだとしても、『宇宙戦争』を他人事ではなく、本気で受け止めた(ぼくが知っている限り)唯一の映画作家ポン・ジュノだったのではないかとさえ感じた(監督が意識している、していないに関わらず)。ぼくがもし黒沢清だったら(こういう仮定はそもそも相当おかしいのだが)、この映画を観てすっごく悔しいと思っただろう。この一作で『回路』がかすんでしまったようにさえ感じる。もし「ゼロ年世代の想像力」などというものが本当にあるのなら、それは日本のアニメのなかにあるのではなく、ポン・ジュノの映画のなかにこそある。(ぼくにポン・ジュノを薦めてくれた人は、ポン・ジュノウェス・アンダーソンとを並べていたのだが、『グエムル..』を観てそれに納得がいった。)『殺人の追憶』が2003年で、『グエムル..』が2006年だから、たった三年でここまでやったわけで、それも凄いと思う。『殺人の追憶』は相当ヒットしたらしいから、製作する条件としてかなり恵まれてはいたのだろうけど、それでも凄い。『ほえる犬は噛まない』を観れば、この監督に並ではない才能があることは分るのだが、いきなりここまでのものをつくってしまうとは。才能のある人が本気で努力すると、こんなに凄いものが出来てしまうこともあり得るのだ。夜中に観たので、興奮してまったく眠れなくなって困った。
この映画を観ると、例えばタランティーノを観て喜んでいることが何と甘っちょろいことかと思う。(勿論、「甘っちょろい喜び」も人生のなかで貴重であり、全然ありなのだけど。)ユマ・サーマンのジャージ姿とぺ・ドゥナのジャージ姿とを比べただけで、その差はあきらかだろう。そもそも、アクションやモンタージュを支える「運動神経」の質が違うのだろう。ポン・ジュノのアクションは決して速くはなくて、例えば、一家が病院から脱出するシーンで、車に乗り遅れてしまったぺ・ドゥナを捉えるカット。ゆっくりと走る車のなかから捉えられるぺ・ドゥナは、走ることさえなく、悠々と駐車中の車の間を歩きながら走行する車に近付いてきて、なにごともないかのように車に乗り込む。にも関わらず、ここでは何かが「動いている」感じがある。(どうやって病院から抜け出すかという「方法」にこだわって、そこに見せ場をつくるのではなく、ある運動のみをみせてあっさり脱出できてしまうところも良いと思う。)あるいは、ライフルに残った最後の一発で怪物を倒すと言う爺さんが、しかし残りの弾の計算を間違えていて撃つことが出来ず、怪物にやられてしまうまでの一瞬の時間の猶予がスローモーションで引き延ばされるカット。ここでは、たんに段取りが説明されるのでもなく、引き延ばされた死をサスペンスとして示すのではなく、ある一瞬に起こった出来事(失策)が、「起こってしまった」ことのどうしようもなさこそが、この遅さによって示される。(一見説明的にみえるスローモーションにも、独自の「遅さ」の質があるように思う。『殺人の追憶』で気になった、わざとらしいタメがこの映画では全く気にならない。)あるいは、検問で、賄賂を要求する役人と爺さんとのやりとりが、クローズアップの切り返しで示されるシーン。ここでは、眼球や瞼のちょっとした動き、首のごく僅かな傾け方、等が、派手なアクションに負けない程の「動き」を画面に与えている。(ポン・ジュノは「顔」を捉えるのが特に巧みな監督だと思う。ソン・ガンホの顔の素晴らしさ。)前の二作を観るかぎり、ポン・ジュノは、才能はあるけど穴もある人という印象なのだけど、この映画では冒頭のカットからいきなり傑作という雰囲気が漲り、それが途切れることなく最後まで持続するので(ひとつひとつのシーンにこめられているアイデアの量が半端ではないだけでなく、それらがことごとく噛み合っている)、このシーンが凄いあのシーンが凄いという話はいくらでもつづけることが出来るのだが、それをいくらつづけても、この映画がいかに凄いかには必ずしもつながらないようにも思う。(それにしても、細部について際限なく話したくなってしまうような映画ではあるが。)
この映画は、たかだか河っぺリにたった一匹の怪物があらわれたというだけの話が、いつの間にか現代の韓国の社会全体の雰囲気を反映し、アメリカと韓国との関係さえも反映するひろがりをみせたかと思うと、それが結局はある一家の話へと収斂してゆくのだが、それでも、社会派でもないし、家族が大事という感動の話にも着地しない。監督自身の世代を反映するかのような細部(火炎ビン!)もあるが、それがことさら前に出てくるわけでもない。かといって、純粋な「アクション」のみが提示されているというのでもない不純な要素がたくさんあるし、映画マニア、アニメマニア的なだけの映画でもない。(ある意味すごくペラペラなのだが、シャマランみたいに、分りやすく「変(=現代的)」なわけでもない。)この映画は、フィクションの原理にも、現実の原理にも、そしてジャンルの原理や純粋なアクションの原理にも、そのどれにも安易にもたれかかることなく、その全てを同時に意識しつつ、そのどこにも着地しないキワキワの緊張を保ちながら、「この映画」そのものとしての、独自の「運動の軌跡」をつくり出しているという点で、傑作なのだと思う。