●ネットフリックスでポン・ジュノの『オクジャ/okja』。ネットフリックスオリジナルの映画。隅から隅までぎっしりポン・ジュノが詰まっている感じの映画で、とてもよかった。様々な要素がごった煮的に投入されていて、基本としては王道のエンターテイメントなのだけど、強い社会批判(というか、強い挑発性)があり、後味がすごく悪い。エンターテイメントなのに後味が悪いというのは矛盾しているようだけど、ポン・ジュノのやりたいのはまさに「それ」なのだろうと思った。
『スノーピアサー』がイマイチだったので、ポン・ジュノアメリカ進出はあまり上手くいっていないというか、ハリウッドとポン・ジュノの相性はあまり良くないのではないかという感じがずっとあったのだけど、『オクジャ』は、アメリカ資本だからこその大きな規模の予算によってはじめて可能になった作品でありつつ、まさにポン・ジュノならではの作品になっていて、それを両立させたのがいわゆる「映画界」ではなくネットフリックスだったというところが面白い。
もしこれが娯楽作として映画館で上映されたとして、家族連れやカップルで観に行ったとしたら、帰り道は空気がどんよりしてみんな無口になってしまうだろうし、ましてや、この映画を観た後で「食事を楽しむ」というデートコースは不可能になってしまうだろう。だからきっと、ハリウッドではこの企画は通らない(資金がつかない)のではないだろうか。この企画はネットフリックスだからこそ通ったのだろうと思う。
主役の少女にとっては、一応ハッピーエンドといってもいい終わり方なのだけど、観客は、この少女の行為を百パーセントは肯定できないだろう。というか、観客は、少女も、ミランド社、ALF(Animal Liberation Front)も、百パーセント肯定できないし、百パーセント否定もできない。この映画は、観客を「挑発する」映画ではあっても、「正義を主張する」映画ではない。たまたま「オクジャ」だけを助けることができ、少女は元通りオクジャと暮らすことができるようにはなるが、しかしそのことは、この世界を何も変えていないし、何が正しいか、自分はどう行動すべきかが示されるわけでもない(たんに、悪が告発されるのではない)。世界はこのようにあり、少女はたまたま、そのような世界のなかで利己的に上手くいったということが示されるだけだから、ハッピーエンドなのに、観客はすっきりしないし、モヤモヤが残ったままだ。
ミランド社は食肉加工業者であり、安くて良質な肉を大量に生み出すことの出来る豚を(遺伝子組み換えによって)つくりだし、食肉として豚を育て、食肉として殺して、加工する(このことは、多くの人が飢餓で苦しむこの世界において一つの正義であろう)。しかし、少女にとって共に育った「オクジャ」だけはオクジャであって食肉用豚ではない。少女の目的は、ミランド社の告発でもなく、食肉用につくられた動物たちを開放することでもなく、ただ「オクジャ」を取り戻すことであり、「オクジャ」だけを救うことだ。
この物語で対立しているのは、ミランド社とALFであり、この二者は思想的に決して相容れない。しかし少女は、オクジャを救えればそれでいいので、二者の対立関係の外にいる。だから、最初は、あらゆる動物への残虐行為に反対するALFと共闘するが、結局はミランド社からオクジャ「だけ」を「買い戻す」ことで問題の解決とする。そのほかのたくさんの豚たちが殺され、食肉に加工されているのに背を向け、ただオクジャ(と、一頭の子豚)だけを連れて山へ帰ることになる。ミランド社による豚の大量殺戮は、少女にとっての「現実」の範疇をはるかに越える「大きさ」をもっているので、少女には、その出来事について何かしらのアクションを起こすことができないだけでなく、何かしらの判断を下すことさえ可能ではない。だからそこからただ立ち去るしかない。
また、ALFが少女やオクジャを助けるのは、自らの思想信条の宣伝や「運動」(ミランダ社の嘘の告発)のために少女やオクジャを利用するためであって、その意味では、ミランド社が自社のイメージ回復のために少女とオクジャの関係を利用しようとすることと、やっていることは変わらないとも言える(動物にも人間にも危害は加えないと主張するALFのリーダー格の人が、じつは衝動的な暴力をふるいがちな人である、という逆説もある)。
三者三者とも、それぞれ自分たちの利害や目的に基づいて行動し、そのような複雑な状況のなかで、少女は自分の利己的目的を達成することに成功する。その点に関して、一定の祝福の感情を抱きつつ、どうしても、「ほんとにこれでいいのか?」という疑問を持たずにはいられない。「少女がオクジャを奪われ、少女が自らの行動によってオクジャを奪い返す」という一行で要約可能なエンターテイメント的でシンプルな物語があり、そこにシンプルに解決することの出来ない多様な問題をごった煮的に詰め込むことで、そこから「問題が解決された」というスッキリ感(カタルシス)を消してしまう。物語の進行を通じて、オクジャに関する様々な背景を知ってしまった以上、ただシンプルに「オクジャを取り戻す」だけでは納得できなくなっている。シンプルな物語とそれを支える背景としての世界像があるとして、シンプルな物語という前景に対して、背景の力が勝ってしまっていると言える。
この映画は、観客に対して「ヴィーガンになれ」と主張しているわけではない。そのような分かりやすい正しさはどこにもない(たとえば、少女は、オクジャは食べないし、ミランド社の加工肉も食べないだろうけど、家で飼っているニワトリの肉や卵は普通に食べているだろう)。この映画は分かりやすい「正しさ」の方向を示してはいない。だから、とりあえず、誰もが、自らの能力の範囲内で利己的に振る舞うしかない。しかしそのような状況は、「誰もが(自分の身の丈に合った範囲内で)利己的に振る舞うしかない」というシニカルな解決では決して納得できない何かがあるということを、モヤモヤ感によって逆に浮き彫りにする。観客は、すごく面白いエンターテイメント作品なのに、「スッキリ」を与えられることがなく、モヤモヤしたままで終わるということを通じて、その事実を突きつけられる。これがポン・ジュノの挑発なのだと思う。
●この映画の主な舞台は、韓国の田舎の山の中と、ソウルと、ニューヨークなのだけど、特に、ソウルで撮られたアクションの場面がすばらしい。『グエムル』も素晴らしかったけど、それを上回る面白さで、そしてこのアクションは、ある程度以上大きな規模の予算によってはじめて可能になるものだと思われる。つまり、『グエムル』以上のことをやるにはある程度「お金」が必要であり、そのためにはアメリカ進出が必要であったのだろう。そして、『グエムル』から十年以上かかって、粘りに粘ってとうとうこれを実現させたということだろう。ポン・ジュノすげえと思った。
(アクション場面そのものはすばらしいのだけど、そのすばらしいアクションによって何か問題が解決されるわけではないという意味では、アクションは不能だとも言える。)
ポン・ジュノは、韓国映画という枠のなかでは(興行的にも)十分以上に成功してきた人で、無理してアメリカへ進出する必要もないように思えたし、実際、『スノーピアサー』はあまり上手くいっていないように思われたのだけど、『オクジャ』のソウルでのアクション場面を観て、これを実現させるためにはアメリカ進出が必要だったのだなあと納得した。