●そこに何が書かれているのか、その書かれていることは真であるのか偽であるのか(あるいは、どのような条件が満たされればそれを真とみなせるのか)、ということだけが問題なのではない。むしろそれよりも、「そう書かれる」ことによって「それ」が何を語っているのか(何を伝えてくれているのか)こそが問題なのだ。
人間において、知と真(あるいは信)とが常に食い違うこと。真を知によって置き換えることは出来ないこと。そして、真とはほとんど「偽」としてしか成立しないこと。しかし同時に、知を無視することも決してできないのだが。
●以下は、立木庸介「V、F、a」(『精神分析現実界』)からの引用。メモ。真理値としての対象aについて。これはほとんどフィクションとか芸術とかのことではないだろうか。《真理の決定がいかなる意味でも真理値の到来に先立ってはいない》って、超かっこいい。
フレーゲにしたがえば、「日本の首都」という記号(正確には、これは「Xの首都」という関数を「日本」という変項(Argument)で充たしたひとつの式である)は「東京」という対象(「日本」という変項にたいする「Xの首都」という関数の値)をもつ。これにたいして、「日本の首都は東京である」という文(「日本の首都はXである」という関数を「東京」という変項で充たした命題)は、「真」という対象(この変項に対するこの命題関数の値)を、同様に「日本の首都は大阪である」という文は、「偽」という対象をもつ。しかしながら、はたして東京という都市と「真」・「偽」という真理値とが、ほんとうに同じカテゴリー(Bedeutungという値)に属すると言えるだろうか。》
フレーゲがこの問いにたいしてあくまで「然り」と応えるのは、ライプニッツの定式、「同一なるものは、真理を損なうことなくして一方と他方を相互に置き換えることができる」をいっさいの言語単位に適用可能にするにあたって、この「同一性」を厳密にBedeutungの水準においてのみ確立すべきであると考えたからである。およそいかなる記号ないし記号列もSinnとBedeutungをもつ。だが「宵の明星=明けの明星」という式は、太陽系第二惑星金星というBedeutungのうえにのみ成り立つ。同様に、いかなる文もsinnとBedeutungをもち、前者が思想、後者が真理値と呼ばれる。だが、pおよびqという二つの文の間に「p=q」という等式が成り立つとすれば、それは両者の内容(思想)によってではなく、両者の真理値によってのみ支えられる。フレーゲは、このように厳密に規定することによってはじめて、いかなる複雑な文や文章についても、完全な計算を行うことができると考えたのである。》
《だがそもそも、ラカンと共にある私たちは、フレーゲと同じ出発点には立ってはいない。フレーゲの論理学的構築全体が前提としている素朴ないわゆる「二値原理」を、ラカンは共有していない。私たちがこれまで見てきたように、ファルス的signification(あるいは、より広く隠喩のsiginification一般)をはじめから検証不能な偽と位置づけることで、すなわち、このsiginificationの真偽の判定を経験可能な現実からきっぱりと切り離すことで、ラカンは、東京という都市と二つの真理値とを同じ次元におかねばならないというようなジレンマを、ひと跨ぎに飛び越える。これはちょうど、話(parole)の真理をやはり経験的な現実と異なる次元(大他者の地平)に位置づけたのとパラレルな手続きであり、すでに述べたことを繰りかえすなら、その裏面であるといってよい。そしてその上でラカンは、このsiginificationの「偽」の背後にさらに要求される現実的なBedeutung=対象として、対象aを位置づける。いったん経験的な現実と切り離された論理の内部にあらためて導入されるこの「現実的なもの」は、それゆえ経験的な現実とはなんら関係がない。それは、上述したように、象徴界の領域において表象不能であり、その意味で不在でありながら、しかもその不在のまま象徴界の体系を支えるものとして、一つの対象のもとに到来する現実である。》(以上、72〜73ページ)
《これまでの議論を集約しつつ、あらためて定式化すれば、対象aとは、偽としてのファルス的siginificationの彼岸に、しかし症状のBedeutungとしてやってくるような対象である。私たちの考えでは、これが、対象aを真理値と呼ぶときにラカンの射程に入っていた論理である。》(71ページ)
ラカンは、欲望が「棒線を引かれた大他者の代わりに幻想の対象aを置く」と述べているが、この対象の介入は、同時に大他者の非存在を開示せずにはおかない。対象aの出現は、そのつど、この非存在の−−−引き剥がすことのできない−−−印なのである。P・スクリヤビンが述べているように、対象aは「大他者の上に引かれる棒線の相関物」にほかならない。》(63ページ)
ラカンが、真理の不在の彼岸になお真理値としての対象aを立てるのは、大他者の構造的欠陥に直面した主体が、それでもなおこの欠陥との関係において、自らを決定するように促されるかぎりにおいてである。そこにおいて対象aは、主体が見出されなければならないが、もはやいかなる意味においても再発見されえない彼の存在の真理を、その不在のまま印づけるものとして現前するだろう。(…)だが、自らの真理の探究を大他者の地平の内部で行わなねばならぬ主体が、この大他者の欠陥を自らの欠如によって穴埋めせざるをえない立場に立たされる、まさにそのときに対象aが介入してくるのだとすれば、この対象は、自らの真理へと向かうことを止めない主体の歩みが、自らの真理を決定できぬ大他者にたいして、いわば奇跡的にもたらす「真理値」であると言うこともできる(奇跡的、というのは、ここでは真理の決定がいかなる意味でも真理値の到来に先立ってはいないからである)。(…)主体の欲望は、ここにおいて大他者の欲望を追い越さねばならないだろう。ひとつの精神分析を突き動かすのは、すなわち、欲望の袋小路(impasse)の通過(passe)へと主体を導くのは、おそらくそのような、大他者の欲望を追い越す主体自身の欲望のみである。》(78〜79ページ)