●かなり前から持ってはいたのだけど、なかなか最初の二、三ページを通過することのできなかったクロソウスキーの『肉の影(バフォメット)』の、なんとかプロローグの部分を通り抜けることが出来た。とはいえ、見通しを塞いだような、ただ足下みのを見て迷路を(あみだくじ上を)歩かされるような文章と、同じ人物が何通りもの呼び方で呼ばれていて混乱してしまうのとで、一度読んだだけでは何が書いてあるのか掴みきれず、あたらめて最初からもう一度、一度目よりもずっとゆっくりと読み返して、ようやく書かれていることが呑み込めた。(とはいえ、これから先の展開についていけるかどうか不安だ。)
●少しぼーっとしてから、『遠まわりする雛』(米澤穂信)の、最初の三つの短編を読んだ。米澤穂信の小説はどれも、必ず何かしら独特の「引っかかり」というか「屈折」があり、それが不思議な面白さになっている。最初の三つの短編に限って言えば、どれもホータローと千反田えるとの関係についての話で、これは古典部シリーズというよりもむしろ、小市民シリーズのバリエーションみたいな感じだ。二人の男女の関係を描くのに、いちいちミステリ的な仕掛けという媒介を間に挟まなければいけないという回りくどいところに、その引っかかりが発生する秘密があるのかもしれない。
●荒川修作の発言から。「歩く」ことについて。《私はある環境の中で何かを見つけながら、見られながら、私自身の身体の中を歩いている何かを感じます(笑)などと言うとどうなりますか?》
これは「現代思想」の荒川+ギンズ特集に載っていた佐々木正人、福原哲郎との鼎談からの引用なんだけど、この鼎談で、佐々木氏や福原氏の言うことは、なんとなくイメージとして理解できる。ぼくは福原哲郎という人がどんなダンサーなのかまったく知らないにもかかわらず、《姿勢とは大地に対する決断です》とか「ある姿勢をとる時かならず重力が作用していて、重力を支える接触面の身体の側を足といい、世界の側を大地という」みたいに言われると、なんなく納得してしまう。(それに対しアラカワは「足がなくちゃ歩けない」というのじゃダメだ、とか言って、引用部分の発言となる。それにしても、この言葉の強さは何なんだろうか。)でも、アラカワの発言は、イメージとして理解することが出来なくて、言葉として、字義通りに、そのまま受け入れてみる(あるいはまったく受け付けない)しかない。荒川の身体は「言葉」だけで出来てるんじゃないかとさえ思う。(荒川の作品のまったく引っかかりのない滑らかさ、ハリボテのような薄っぺらさ、物への無関心。)まずその異様さを体感すること。
●アラカワのつくった住宅では、収納がいっさいなくて、そのかわり、天井にいくつもフックが打ち込まれていて、持ち物は全てそこからぶら下げることになっていた。これは何かとても特徴的で、おそらく現実的にも比喩的にも「押し入れの奥にひっそりとしまわれた記憶」というものを嫌っているということで、あらゆる記憶=持ち物は「目に見えるところ」に常にぶら下がっていて、視線の動きだけによって(その都度)即物的に現前しなくてはならない。そして同時にそれは、他者の視線にも常に晒されていなくてはならない。裏側に隠された物がないということは、厚みがないということだろう。