07/11/07

●kuriyamakoujiさんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20071107)に、先日行われた保坂和志さんとぼくの対談についての反応が引用されいました。ぼくは、それが厳密なロジックにもとづくものであろうとプロレス的なものであろうと論争という形式を好まない(意味を見出せない)「いい加減な奴」なので、反論ではなく、(おそらくぼくの喋りが未熟であったことが原因だと思われる)単純な誤解の訂正と自分の発言の補足だけをしておきたいと思います。
《また、先日大学の文化祭で小説家保坂和志の講演を聞いたのですが、そこで映画作家デヴィッド・リンチを、時系列にそった通時的な因果律や一貫した主体の自己同一性から自由な『フレームから外れた』作家として安易に称揚してしまう保坂や、その対談者である画家の古谷利裕の態度に、....》
あの場でぼくが言おうとしていたことは、リンチが、たんに《時系列にそった通時的な因果律や一貫した主体の自己同一性から自由な》だけの作家と「いかに違っているか」、ということだったのですが。リンチにおいて、因果律の解体や同一性の崩壊は、たんに「結果」であって、それを引き起こさざるを得ない「不穏な何か」こそがリンチのリアリティである、ということを一生懸命言おうとしていたのですが、残念ながらそれは伝わらなかったみたいです。時間的秩序や同一性を歪ませてしまう程の強い力とはおそらく「現実」(保坂さんの嫌いな言い方をあえてするなら「外傷」)なわけですが、しかしその現実は決して「作品」と切り離して、その外側に見出せるようなものではない、作品のゆがみそのものによってしか感知されないような「現実」なのだ、ということでした。(リンチは「美学的」な側面からはまったく評価できないと思います。普通に「映画的」にみれば、ひどいショットばかりから成り立っています。)
《古谷さんも偽日記の『サッドヴァケーション』評を読む限り、狂気の母性と責任の父性の相克については良くお分かりのようなのに、講演では保坂のいい加減さに単に加担しているだけのような気がしました。》
サッドヴァケイション』に対して批判的なことを言うとしたら、それはまさに《狂気の母性と責任の父性の相克》というような要素を作品から独立して切り離して、それのみで議論したり、それによって作品を評価したり批判したりが簡単に出来てしまう、という点があります。それがつまり、「東京タワーが千代田区にある」という事実を作品とは無関係に評価できてしまう、ということだと思います。リンチの映画の「現実」はまさに作品と一体となってしか存在せず、だからこそ逆に、作品に対して(作家に対しても)徹底して「外」にありつづけるとも言えます。この歪みのなかにこそリンチの現実があると思うのです。(ぼくが、保坂さんの「野蛮さ」に魅了され、引っ張られているという指摘は、否定しませんが。)
《....「東京タワーは千代田区にある」という記述は「東京タワーは港区にある」という常識を皆が共有しなくては宙づり状態は生み出されない。でも、僕が言いたいのは「東京タワーは港区にある」という常識が読者にとって自明のものであるという前提が無くてはそれは成立しないでしょってことなんですけどね。社会学的言説によれば、そういった常識的な共通前提の維持がかなり危なくなっている訳で、そういう状況を無視しているようにしか見えないんですよね・・・。》
社会学的な次元で、そのようなことが問題となっていることはぼくも知っているし、それを(社会生活の上で)無視できるとも思いません。ぼくにも、そのような視点からの問題意識はあります。ただ、そのような社会学的視点そのものを揺るがすくらいに強い「別のリアリティ」がリンチにはあり、それに従うことこそが芸術における論理であり倫理であるのだと思います。リンチにおいては、「東京タワーは千代田区にある」という文は「東京タワーは港区にある」という作品の外の事実(常識)との関係で作動するものではないと思います。作品の外の事実(現実ではなく「事実」)は、作品内部ではまったく無効であり、事実である資格を剥奪されています。(善し悪しはともかく、リンチやアラカワにおいては、その点が他に例をみないほどに極端である。そこで現実とは、常識や共通認識とはまったく別の、もっと直接的でかつ知覚不能なものです。)つまりそれは、社会学が「現実」としているものが本当に「現実」なのか、人は本当に社会学的な現実のなかで(のみ)「生きて」いるのか、ということでもあります。それが間違っているということではなく、それを現実とする「フレーム」とは別のフレームを芸術は成立させることが出来る(すくなくともその「可能性」のなかでつくられる)、ということです。それは必ずしも「美的なもの」に還元されるのでもありません。芸術が一番エラいとは言いませんが、社会学の方が芸術よりエラいとも思いません。芸術が社会学や倫理の問題の翻訳である必要はないと思います。
(余談ですが、ぼくにはカントの超越論性とラカン象徴界を短絡しているような斉藤環氏の議論-茂木健一郎批判は納得できません。ラカンによってカントを復活させたいという「欲望」は理解できますが。でもラカンは、「それは無理だ」ということをこそ言っているように思います。例えば『精神分析の倫理』において。もともと、フロイトの、外への攻撃性が内側にねじ曲がって超自我が生まれるという説明は、カントの道徳や自由への根本的な否定ではないでしょうか。斉藤氏はたんに、クオリアでは説明出来ない「象徴界」のはたらきがあり、原初的に刻みこまれた「否定」があるのだ、ということだけ言えばいいのに、何か「変なもの」を背負っちゃってる感じがします。)
●ぼくは、ここで引用されている文章を書いた人の問題意識を理解できないわけではありません。でもそれは、あの場での保坂さんとぼくの話とはまた別の次元の話だと思う。ぼくは自分を芸術家だと思っているので、(必ずしも論理的ではなくても)芸術の話を真剣にすることが最も「責任ある真面目な態度」なのだと思っています。全ての人が、同一の正しい問題を正しく共有しなければならない、という一方的な前提こそが疑うわれるべきだと、ぼくは思います。
(追記07/11/08)
●もうこれ以上反応する気はありませんが、乗りかかった舟なのでもうちょっとだけ。「追記」の部分について。(たんに「つまんねー」とか「ゆるいよ」とかだったら、そうですか、すいません、てだけの話なんだけど。)
●多分、あなたのいらだちは下記の部分に集約されているのだろうと思います。
《リンチを楽しめる人なんて、その殆どが通俗的因果律を片方に強固に持っているインテリ人間な訳で、そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い。それなのに、そういった経路無しに芸術が、それ自体で成り立つ、なんてことを無邪気に言ってしまう。そういう無邪気さがどういう上げ底で成り立っているか見ようとしていない。》
(1)まず一点。《リンチを楽しめる人なんて、その殆どが通俗的因果律を片方に強固に持っているインテリ人間な訳で》って、あなたの「インテリ人間」に対するイメージはあまりに歪んでいます。まるでインテリ人間=社会的な強者みたいじゃないですか。そんなの何十年前のイメージですか。多分、リンチが好きなような変人とも言える「インテリ人間」の多くは、現在の社会では、かなり貧しい生活やきびしい立場を余儀なくされていると思います。(ぼくも含めて。ぼくをインテリというのはキツいけど。)それに、リンチなんかをわざわざ好きになるのは、《通俗的因果律を片方に強固に持っている》ような人ではなく、むしろそれが常に揺らいでしまっているような不安定な人のはずです。リンチは(現代芸術は)、壷や骨董品じゃないんだから。あなたの意見は、ごく素朴な「人間観察」的な次元でズレていると思います。
(2)二点目。《そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い》について。一体あなたは何の権利があって「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃん」を代表しているのですか。「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃん」たちから選挙で信任されたんですか。マーケティングの結果ですか。世間の常識ですか。誰が何を面白いと思うかなんか分からないじゃないですか。あの日の講演はまさに、こういう考え方に陥らないためにはどうすればよいのか、を巡るものでもあったと思います。フレームに捕われないというのはそういう意味でもあって、「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃんなんかがリンチを理解できる訳が無い」と思い込んでしまった(そういうフレームを前提としてしまった)瞬間に「負け」なんです。そこで既に、マーケティングや資本主義やネオリベや「日本」という強力なフレームに負けてるわけです。(勿論、結果として「理解されなかった」なんていうのはしょっちゅうなわけですが、そんなことで負けてたら芸術家なんてやってられません。実際、あの日の講演の言葉はあなたにはまったく「理解されていない」わけだし。)そんなのは「ゲイジュツカ」のたわごとだと思うのならば、それはそれで仕方ありませんが。
(3)三点目。《そういった経路無しに芸術が、それ自体で成り立つ、なんてことを無邪気に言ってしまう。そういう無邪気さがどういう上げ底で成り立っているか見ようとしていない。》あなたのイメージはかなり一方的です。どこかに、しっかりした自己と揺らがない自信とがっしりした経済的な基盤をもった強者である「インテリ人間」がいて、もう一方でそこから徹底的に疎外された「そこら辺の言語を鍛えていない兄ちゃん姉ちゃん」がいる、と。後者からみたら前者は何て無邪気で能天気なんだ、と。しかし、実際、芸術に興味をもち、それに関わって生きている人の多くは、経済的にめちゃくちゃ貧しいし、精神的にも不安定であやうく、きわきわで生きてるような人が多いですよ。ぼくも含めて。(必ずしも高度な教育を受けているわけでもないし。ぼくも含めて。)少なくとも「安定した基盤(常識)」が先にあって、その上に乗っかってはじめて「芸術(ズレ)」がはじまる、ということではないと思います。(勿論、「いい家」の生まれという人もなかにはいますけど。)これは理念とかではなく「現実」です。実際には、なけなしの現実のなかで、どうにかこうにか、きわきわでやってるわけです。だからこそ、リンチがリアルなのだと思います。
●あと、これは繰り返しになりますが、もう一点。
《いわゆる芸術家にありがちな『フレームから外れろ』的なクリシエでしかなく...》
あの場では二人とも決して「フレームから外れろ」なんて単純なアジテーションをしていないことは、普通に聞いていれば分かるはずです。あそこで言っていたことを端折って纏めれば、(1)どうしてもフレームから外れてしまう人がいる(作品がある)、(2)そのような作品にどうしても惹かれてしまう私がいる(おそらくそれは私自身も否応無くフレームからズレてしまう部分があるからだろう)、(3)それは一体どういうことなのだろうか(どうしてそういうものをリアルだと感じるのだろうか)、(4)そういう事実を決して誤摩化すとなくちゃんと考えよう、ということです。ここでメッセージがあるとしたら、「フレームから外れろ」じゃなくて、「フレームは壊れる(確固たるものではない)」であり「その事実(フレームから外れてしまうこと)を誤摩化すな」という方にあるはずです。(これは単純に表現力、あるいは読解力の問題で、ぼくの言い方が悪かったのか、あなたの理解力に問題があるのか、どちらかです。)