●寒さで五時ころに目が覚めてしまい、その後も寒くて眠れなかったので、朝の五時半くらいからDVDで『ブルー・ベルベット』を観ていた。かなり久しぶりに観たのだか、すごく面白かった。前半はちょっと凡庸じゃないかと思うところもあったけど、中盤以降は完璧に完成された「リンチ」で、リンチはこの映画以降、同じ一本の映画の「展開」をつくりつづけていると言っていいんじゃないかと思った(ローラ・ダーンは、楳図かずおのマンガのように顔を歪ませることが出来るという点からも、リンチの映画にはなくてはならない人なのだ)。劇場用の映画では、内包的、強度的に凝縮させてゆくような展開として、「ツイン・ピークス」や「オン・ジ・エアー」のようなテレビシリーズでは、ちょっと希薄に、緩くなりながらもそのぶん自由な感じの、拡散的、外延的な展開として。
イレイザー・ヘッド』だけなら、それはユニークで個性的なアートっぽいフィルムとして片付けることも可能だし、逆に、『エレファント・マン』や『デューン砂の惑星』は、ちょっと「映画(業界)」の方に譲歩し過ぎたというところもあるけど、『ブルー・ベルベット』は、まぎれもまく「映画」でありながら、いわゆる「映画」とは異なる、「リンチ」という特異な位置を発見したという感じ。それは(シネフィルが信奉するような)メディウム=イメージであるような純粋な「映画」ではないが、かといって、リンチの「個性」だけに解消されるものではなく「映画」という流れのなかに位置するものでもあって、リンチという「個」を通じて、映画という「普遍」の一端に触れることが出来ているように思う。
●最近、面白いと感じるものの多くが、その源流を遡るとライプニッツに行き着くらしいので、中公クラシックスの『ライプニッツ』を買ってきて、いきなり「モナドジー」を読むのもちょっとと思って、夜に、ごく短い「対話」を読んだのだが、これがどんぴしゃな感じで「二人称の思考」だった。
このテキストは、「真理」は、「事物」の側に属するのか「思考」の側に属するのかというテーマで展開されていて、どのような思考も「記号」を媒介とすることなしにはあり得ないが、そもそも記号と事物の結びつきが恣意的なものに過ぎない(「10」という記号は10という数にまったく似ていない)とされ、しかし、《記号自体は任意ですが、それの適用や結合にはもはや任意ではないものがあるのですから。つまり、記号と事物のあいだに存在する関係、したがってまた、同一の事物を表現しているさまざまな記号すべてのあいだに存在する一定の関係というものは任意ではない。この関係や関連が真理の基礎です》、とされる。つまり、「真理」は、「事物」の側にあるのでも「思考」の側にあるのでもなく、事物と思考を媒介する「記号」によって(「記号」によって表現される「関係」によって)可能になる、と結論される。《真理は必然的になんらかの記号を前提するばかりか、ときには記号を対象ともつことすらある。(…)けれども、真理は記号における任意性にもとづいているのでなく、恒常性に、つまり記号自体が事物に対してもつ関係にもとづいています》。
例えば、数学は基本的に純粋に形式的な体系であるはずなのに、なぜ、「現実」が数学に従うかのように振る舞うのか(「現実」が数学によって表現されるのか)という疑問がある。それは、数学が、形式の体系(思考の側・一人称)としてあるのでも、現実の表現(事物の側・三人称)としてあるのでもなく、数学という「記号の体系(が可能にする関係の表現)」によって、「真理」という概念が可能になる、ということだろう。記号の媒介によって、「思考」が可能になり、記号の媒介によって「事物」が可能になる。
●ぼくにとって、これはまさに「芸術」の問題であり、朝五時過ぎに見ていたリンチとも深い関係があると思われる。