●送り手(作り手)と受け手を分けて考えることが、何か大きな、根本的な間違いであるように思う。例えば、野球を好きな人は、身体や健康上の理由などがなければ、大抵、自分でもやろうとするものではないだろうか。草野球のチームに入るというところまで行かないにしても、キャッチボールをしたりバッティングセンターに行ったりくらいはするのではないだろうか。あるいは野球ゲームとか。何かしらの理由でそれが出来ないときは、その現状に不満をもつものなのではないだろうか。「野球が好きだ」ということのなかには既に、観ることとすることの両方が含まれるのではないか。あるいは、音楽が好きな人ならば、自分でも楽器を演奏したり、曲をつくったりするのではないだろうか。それを特に、人前で披露したりはしないにしても。
逆に言えば、野球を「観る」だけ、音楽を「聴く」だけで満足するような、「野球が好き」「音楽が好き」には、どこかいびつなものがあるのではないだろうか。「みる」ことと「する」ことの分断のなかに、おおきな間違いが潜んでいるような気がする。
●「みること」と「すること」は別のことではないはず。というか、「みること」は「すること」の一部であり、「すること」に含まれている。「野球選手(する人)」と「観客(みる人)」がいるのではなくて、「野球が好きな人(野球をする人)」のなかに、「特別に野球に興味があって、特別に上手い人」から「少しだけ野球に興味があって、あまり上手くない人」までのグラデーションがある、ということなのだと思う。それは、お金を払う観客がいなければプロ野球が成立しないのであれば、観客もまた「野球をする人」である、ということでもある。
●ということは、「みる人」と「する人」が分断されず、「みること」と「すること」は別のことではないという前提に立つならば、「みること」はただそれだけでも「すること」と同等になるということになるのか。「みる人」は、ただみているだけだとしても、「観客」ではなく「選手」となる。「選手」としてそれをみる人のまえにのみ、「野球」は立ち上がる。そこには「一般的な観客」は存在せず、ただ「濃厚な選手(特別に好き)」から「希薄な選手(そこそこ好き)」までのグラデーションがあるだけとなる、と。音楽を、つくる人、演奏する人、聴く人がいるのではなく、音楽をする人の三つの側面がある。そう言える時ならば、音楽を聴くことがそのまま、音楽をすることとなる。
●そのような意味でならば、「芸術」は、ただそれを「する人」にとってのみ、存在すると言える。絵を観る時、観賞するのではなく、「絵をする」こととして観る時に、はじめて「絵」が見える。この時、画家と観者の区別に意味がなくなる。
●そうではなく、送り手と受け手が分断される時、「作品」はたんにコンテンツとなるのではないか。
●例えばぼくには、映画を観て「1800円分は楽しめた」みたいな言い方がよく分からない。映画を観て、損をした、観に来なければよかったと思うことはあっても、「面白くないけど、まあ1800円分のもとはとれた」とか、「つまらなくはないけど、1800円分には至らなかった」とか思うことはない。1800円出せるか出せないかという「経済的な問題」はあっても、1800円は面白さの基準にはそもそもならない。映画を観るのに1800円払うのは、「1800円分の楽しみを得る」ためではなく、多くの映画が作られ、多くの映画が観られるという社会的な環境(文化)が維持されるためには、映画を観る時にそれに相当するお金を払う必要があるから、支払うということだと思う。それは既に「映画をする」ことの一部だ。
それが、「二時間の楽しみを1800円で買う」ということになってしまうのは、送り手と受け手が切り離され、「する」ことと「みる」ことが切り離されてしまって、「みる人」はただ「みる」だけなのだと思い込まされてしまっているからではないだろうか。
●とはいえ、これはちょっと問題を単純化しすぎているかもしれないとは思う。それでもなお、「みる」ことと「する」ことの間に、ある非対称性が生じてしまうことはあるのかもしれない。そのような非対称性が、一体どのようにして生じるのかということこそを、丁寧にみていかないといけないのかもしれない。しかし、少なくとも「そう考えること」でいろいろなことが違ってみえるはず。