●昨日の話に関係するこというか、つづきみたいなことをもうちょっと。
例えば、よくある単調な対立の話で、「作品に大切なのは初期衝動やフィーリングやオリジナリティで、勉強ばかりして頭でっかちの作品はつまらない」という話と、それに対して、「過去の人々の仕事や歴史をきちんと勉強することなくして、まともな作品をつくることなどできない」という話が対立する。しかしこのような対立こそが、「みること」と「すること」の分断によって生まれる偽の対立なのだと思う。
前者に対しては、後者の言うとおり「過去の作品を知らずに何故作品がつくれるのか」という疑問があると同時に、後者に対しては、「それ自体が創造であるような勉強でなければ、勉強することに何の意味があるのか」という疑問が生まれる。後者もまた、前者と同じ愚かさの裏返しでしかないようにみえる。つまりここでは、両者ともが、創造することと勉強することは別のことであるという前提にたってしまっている。しかしそもそも、この前提が間違っているのではないか。創造することと勉強することが別であるかのように錯覚してしまう原因が、「みること(勉強)」と「すること(創造)」の分離にあるのではないか。
実際に、一方に「幼稚」と感じられる作品があり、もう一方に「頭でっかち」と感じられる作品があるということは事実だが、勿論それは両方同じくらいダメなわけで、そこでは創造と勉強が分離して、その上でどちらかの優位が主張されてしまっているということではないだろうか。創造と勉強が別のものでない以上、「勉強のあり様」は勉強-創造する人によってそれぞれまったく異なる様相をみせるはずで(「勉強の仕方」もまた創造されなければならない)、いわゆる「勉強」だけが勉強ではないのだが、前者も後者も、その部分がみえていないことが多い気がする。
例えばそれは、野球選手と水泳選手とでは、体の鍛え方から技術の磨き方までそれぞれ「違う体系」をもっていることと変わらないのではなか。野球選手が、水泳選手とおなじ鍛え方をしないからといって、それを「練習が足りない」とは言うのは間違いだし、逆に、野球選手が自分の価値観で水泳選手に向かって「そんな練習はやっても意味がない」と言うのも間違いだろう。
(「勉強」と言うと対象をメタ的に把握するみたいなイメージになってしまうので、はじめから「練習(エクササイズ)」と言えば間違いにくいのか。エクササイズは、新たな身体や知識や技術や結果(成績)を創造する。例えば、打者が相手投手の特徴を「分析する」のも練習の一つだ。)