ルノアール『フレンチ・カンカン』

ルノアールの『フレンチ・カンカン』をビデオで。この映画を観る度に思うのだが、ラストちかくで、様々な困難の末にようやく念願のフレンチ・カンカンの上演にこぎつけたジャン・ギャバンが、しかしそのステージをまったく観ようとはせず、舞台の袖にすらいなくて、上演中の音のみが聞こえてくる舞台の裏側にたった一人でいて、椅子に座って上演中の喧噪の音だけを幸福そうに聞いているシーンをみると、いま、この人は死につつあるんじゃないか、このままここで死んでしまうのではないか、という感じがするのだった。勿論、何度も観ているから、ラストで彼が客席のなかに入っていって、上演も終わらないうちに、客のなかからもう既に次のスター(愛人)を物色しはじめるのだということを知っている。それでもなお、このシーンはまさに「人が死にゆく過程」を描いているようにみえてしまうのだった。この映画のなかで(多分にルノアール自身を反映しているであろう)ジャン・ギャバンは、どん底の状態の時にさえ、多くの人たちに囲まれ、支えられ、複数の女たちから愛されているのだが、このシーンでのみ「たった一人」になる。この瞬間はまさに、彼がずっと望んできたことが実現されているにも関わらず、彼はその「現実」は見ることなく、ほとんど目をつむって、自らの空想(幻想)のなかに一人で入り込むのだ。舞台では、踊り子や演者と多数の観客たちが入り交じって、まるで果てることがないかのような喧噪が繰り広げられている。しかしその喧噪は、ただ映画のカメラによってのみ捉えられるもので、一つの視点、一つの身体しかもたない人間には充分に受け取ることが出来ない、充分に耐えることが出来ないようなもので、だから私は身体の動きをとめ、孤独に目を閉じ、有機体としては限りなく死に近付くことでのみ、その内部に入り込めるのだ、とでもいうかのようだ。舞台上の驚くべき喧噪と、ただ一人椅子に座るジャン・ギャバンとのコントラストを観ると、この映画で実現されているような過剰な喧噪は「現実的」には実現不可能で、ただ、ジャン・ギャバンの生全体のなかでつくりあげられた(蓄積された)記憶の全てが、彼の身体のなかで同時に立ち上がって響き合うことによってのみ可能な出来事で(つまり生物としての生をほぼ放棄することによってしか可能ではない出来事で)、だからこの出来事はただ彼の内部のみで起きていることであるかのようにさえ感じられてくる。このシーンで濃厚に「死」の気配を感じるというのは、おそらくそういうことなのだと思う。