●旧四谷第三小学校体育館で、『回想のウィトゲンシュタイン』(岡崎乾二郎)。1988年、多摩ヴィヴァンのためにつくられた幻の八ミリ映画。ウィトゲンシュタイン的な問題というものに、ぼくは今ほとんど興味がないので、ぼくにとってこの映画は、風景ショットのフレーミングの異様なまでの格好よさと、曇天の鈍い白い光が強く印象にのこる映画だった。あと、どこからの引用なのかよく分からないけど、この映画のテーマを要約しているとも言える、「すべてを録画する録画世界があったとすると、その世界にないのは録画することだけだ」と発言するバロウズが、やたらいい顔をしていた。
長い間、その存在を知っていて、観たいと思っていても観る機会の得られなかった激レアものというのは、どうしたってこちら側の勝手な期待と思い込みが昂進してしまうもので、ぼくは勝手に、いわゆる「映画的」な感性などに頓着しない、「悟性」だけでつくったような、知性が問答無用に現前しているような、ギスギス、キリキリした映画を予想していたのだけど、普通に上手くて、こちらの感情にもぴったりフィットするような映画で、意外だった。編集というか、ショットをどこではじめて、どのタイミングで終わらせるかとか、どのショットの次にどのショットを繋げるのかみたいなことから、しかるべきタイミングで、しかるべき音楽をかけることで、こちらの感情を惹き付けたり揺さぶったりするとか、そういうのが本当に上手くて(とても甘美な音楽の使い方は、八ミリ時代の黒沢清を思わせる)、岡崎乾二郎って、やっぱ滅茶苦茶センスのいい人なのだなあと思う半面、正直、映画作家ではない岡崎氏が、こういうセンスの良さで映画をつくってしまうということに、ちょっとつまらないなあ、という感じも持った。
実は、この映画の主題は、感情というか、感情の操作ということなのではないかとも思った。ウィトゲンシュタインがつまらないのは、人が(「頭の良い」とされている人がしばしば)ウィトゲンシュタインに惹かれてしまう、というときのその「感情」については、ウィトゲンシュタインでは問題化することが出来ないということで、それはまさにバロウズが言っていた、録画世界では「録画すること」だけが欠けている、ということと同じだろう。そしてこの映画では、その欠けている感情を、どのように操作可能かということが、裏の主題としてあるのではないだろうか。どんなに、難しそうな、知的な問題が展開されていたとしても、しかるべきタイミングでしかるべき音楽がかかりさえすれば、人はそれをすんなり感情として納得してしまう。えっ、それでいいの、と疑問に思う前に、ああ、いいなあ、と納得してしまう。例えばこの映画では、ウィトゲンシュタインの「かぶり物」をしたキャラクターが出て来るのだけど、かぶり物は、表情の変化がない(みえない)ので、逆に、ちょっとしたことからそこに過剰に表情を読み取ってしまう。ちょこっと頭を傾けているだけで、あるいは、海岸近くの港でぽつんと座っているだけで、そこに何か、思慮深さだとか物悲しさのような感情を強く受け取ってしまう。この映画を観ている観客に起こっていることは、表面で展開する知的な問題と、それを裏で支える感情的な側面との、ミもフタもない分離が強制的に経験される、ということなのではないだろうか。
●映画がはじまった途端に、強めの地震があってビビった。