●夢の中。ぼくは高校生で、体育の授業で校外をランニングして河原に出る。多分、季節は夏で、河原には強い光が射して、風景が異様なまでに、細部までくっきりと見える。鬱蒼と繁る様々な種類の雑草の、そのひとつひとつの形態や重なり、濃い緑から黄緑色までの色彩の異なり、それらが風で時間差に揺れるその動きのいちいち、水の流れのうねり、表面のさざ波、そこに反射する光のきらめき、河原の石のひとつひとつの粒だち、その大きさや色や形の異なり、河原に沿った道のアスファルトの舗装の表面の凸凹、何人かの子供が網で魚を撮ろうとしている、その網の編み目、水しぶきのひとつひとつ、子供が抱きかかえるほどの大きな魚を掴まえる、その鱗の一枚一枚、表面のぬめり、鰓の動き、焦げ茶色のような体表の色とそのグラデーション、子供が来ているTシャツの袖のほつれ、それらの細部が、空間や位置関係を失うほどに、すべてが異様にくっきりと目に入ってきて、ぼくはそれらから目を離すことができず、橋の上で動きを止め、突っ立ったまま河原を眺めている。背後から、教師や同級生の、お前なにやってんだ、という声が聞こえているのだが、動けない。
●夢から覚めて、細部の気持ち悪いくらいのクリアーな感触が消えないまま、カラーチャートのことを思い出した。浪人している頃、ぼくは、一枚に一色で、何百色の微妙にニュアンスのことなる色が印刷された短冊状の紙が単語カードのようにリングで繋がれて、その一つ一つにちゃんと色の名前(紙の裏に書かれている)がつけられた、デザイナー用のカラーチャートを買って(確か、かなり高価だったことを憶えている)、よく眺めていた。おそらく、絵のなかで色彩を組み立てるという途方もない行為の、一つのよりどころとするために買ったのだと思う。しかし実際には、そのカラーチャートに印刷された一つ一つの色をただ眺めているだけのことが、ぼくにとって、殺伐とした浪人時代の大きな楽しみの一つとなった。たんなる意味のない色見本なのだが、ただ色を見るというだけのことが、はっきりと質をもった感覚を呼び起こすこと、並べてみなければ違いが分からないほどに微妙な色の違いが、異なる質をもち、ことなる感覚と結びつくこと等を、驚きと歓びとともに発見した。ただ意味もなく色がグラデーションのように並んでいるだけの紙の束を、まるで多様な風景を見るような感じで、というかもっと言えば、エロ本を見る時のような興奮と歓びをもって見ていた。お前どんだけ頭おかしくて、どんだけ変態なんだ、という話なのだが。
●今日、おそらく(おそらく、というのは、今後判断がかわる可能性がなくはないからだ)油絵の具を使って描いた絵が一枚完成した。F30(91.0×72.7センチ)という、大して大きなサイズではないが、描きはじめてから三ヶ月くらいは経っている(自分の日記で確認したら二ヶ月の間違いでした、体感的にはもっと長いかんじだった)。実際手を動かしていた時間は凄く短いし、載っている絵の具の量も少ない。では三ヶ月(二ヶ月)も何をしていたかと言えば、「置いておいた」のだ。要するに何もしていないということなのだが、しかしアトリエの(ということは寝起きし、住んでいるところの、ということだが)壁に表を向けてずっと立て掛けてあって、それをことさら見ようとしてなくても、それがそこにあることが常に意識されていて、ということは、それがまだ完成という状態ではないことがずっと気にかかったまま生活しているということで、それは、その間ずっと頭のなかで作品をつくっているということで、そのようにしているとある時にふと、次にするべきことが見えてきて、その時にそれをする。でも、それだけではまだ完成とはいえない、言ってみれば「気持ちの悪い」状態なのだが、でもそこでその勢いで続けて手を入れないで、そこはぐっと我慢して、また「置いておく」。そういうことを三ヶ月くらい(二ヶ月です)つづけていて、今日の朝、あっと思ってちょっと手をいれたら、ああ、これでいいんじゃん、と思った。最近、色彩の仕事はこんな感じで、手数は少なくなっているのに、制作期間は長くなっている。(やはり、カラージェッソとは、見切る時間の「速度」が違う感じだ。)
一方、線の仕事はまったく逆で、一度手をつけたら、その日のうちに完成にもってゆく必要がある。画面との接点が、一度でも途切れたら、たとえそれが満足のいく状態ではなくても、もうそこから手を入れることが出来なくなってしまうからだ。だから、息をつめて一気に最後までもってゆかなくてはならないのだ。なんか最近、すごく両極端になっているなあと思う。