●大倉山のギャラリーかれんで「川戸由紀と小林耕平」(http://karen.or.jp/art/artkaren-archives-kawadokobayashi.htm http://maplekaren.blogspot.com/2010/07/blog-post_07.html)。展示はこんな感じ(http://maplekaren.blogspot.com/2010/07/blog-post_29.html)。
画家の天本健一さんから教えてもらって観に行った。すごく面白かった。小林耕平は、ぼくにとって今最も、作品を観るとざわざわと何かが掻き立てられる作家の一人なのだが、ここでは、はじめて観た川戸由紀の作品との間に、関係があるような、とはいえ安易に関係づけるのは憚られるような、不思議な関係が生じていたように思う。展示が面白かった上に、はじめて降りた大倉山周辺の風景も面白く、炎天下のなか少し散歩もした。
●以下、川戸由紀の作品について、感じたことをちょっとメモする。
三つの異なる段階の作品があり、おそらく、一つ目の作品と二つめの作品とを統合して別の次元へと開くかのような映像の作品がある。
一つめは、テレビのお天気カメラの映像をもとにして描かれた、新宿と渋谷の風景の絵。紙に鉛筆で、定規を使った律儀な直線と、淡く、しかし部分的にとても印象的な彩色が施され、描かれている。ここで部分的に彩色される印象的な色彩は、画面が中心をもたない、拡散的なものとなることにも貢献しているようだ。風景は、ほんの僅かずつフレームを移動させて、何枚も何枚も繰り返し描かれる。ここに人物はいないが、よく観ると歩道橋の上などに、とても小さくキャラクターが居たりもする。しかしこのキャラクターは窮屈そうだ。
これらの作品に人物がいないのは、ここで描かれているのが風景-空間であるより、一つ一つの建物の形であり、窓の形であり、道路や横断歩道の形や模様であるからではないだろうか。ここでは、反復される直線や四角形のひとつひとつが、後にあらわれるキャラクターと同等の重さを持つものであるように感じられる。だからこそこれらの建物の絵は、機械的、自動的に何枚も反復されているようにみえて、描かれるその度ごとに何かと出会われ、何かが確認されているような感触があるのではないか。一見無表情にも感じられる淡い色調は、部分的にあらわれる印象的な彩色によって、無機的ではないあたたかみが付与され、描くことの機械的反復と、反復されるその度ごとに確かめられる世界との接触-触感とを、つないでいるかのようだ。
そしてそこから一転して、色鮮やかな刺繍があらわれる。紙の上に淡い色彩で描かれた風景とは異なり、支持体となる布そのものが既に強い色彩をもつ。そこに、非常に強い求心的な密度をもつ(主にディズニーの)キャラクターが横並びに何人もびっしりと刺繍される。そしてその下には、みっしりと詰め込まれた文字も刺繍される。淡い拡散的なひろがりの風景から、強い求心性をもつ、非常にあざやかで表情豊かななキャラクターへ。
この飛躍へと至る中間にあるような絵も展示されていた。紙に淡い色彩で描かれた風景のなかに、まるで歴史的建造物の前で撮られた修学旅行の集合写真みたいにして、キャラクターたちが窮屈そうに並んでいる。風景の拡散的なひろがりに対し、キャラクターたちははじめから強い求心性(ここでは窮屈さとしてあらわれている)をもっているようだ。この、一見かみ合わない二つの要素の混合は、しかしもう一方で、キャラクターたちの四角く見開かれた目と、無数に描かれるビルの窓のとの親近性や、四角く型抜きされたかのようなキャラクターの形態と、リズミカルな四角い形の反復である風景全体との親近性もあらわしているようだ。つまりこの一枚の絵には、拡散的風景が求心的キャラクターへとメタモルフォーゼしてゆく(あるいは、拡散的な風景のなかから、より人間的なキャラクターが生まれた)瞬間が刻まれているのではないだろうか。
しかし、一つめの風景と二つめのキャラクターとは共存することが難しい。つまりここでは、風景は拡散的なキャラクターであり、キャラクターは求心的なキャラクターであるから、両者が共存するためには、そのどちらとも違う、二つをつなぐ媒質としての「空間」が必要であろう。そのための空間を作りだしているのが、おそらく映像の作品であるように思われる。淡い色彩の風景とはことなり、紙に鮮やかな色彩で描かれたいくつもの四角い形があり、その中央部分が「舞台」のようなフレームとなっている。そこに、別の紙に描かれて切り抜かれたキャラクターが置かれ、それが携帯電話の動画機能によってアニメーションのように撮影される。携帯によって撮影されたアニメーションは、テレビに接続されテレビ画面に再生され、その映像がさらにビデオカメラで撮影される。
ここで、携帯動画が直接編集されるのではなく、一度テレビ画面に表示されたものが、あらためてビデオカメラで撮影されることに意味は大きいと思われる。おそらく、テレビ画面というフレームによってはじめて、風景とキャラクターとが共存するための「空間」が確保(確認)されるのだろう。まず、風景(背景)が描かれ、次にキャラクターが描かれ、別々に描かれたものが組み合わせられ、それが撮影によって統合され、撮影されたものが上映されることで空間が生じ、その上映されたものが改めて撮影されることで空間が確保され、確認される、という複雑な過程(手続き)があってはじめて、風景とキャラクター(と、そして文字-言葉をも)を共存させ得る「空間」というフレームがたちあがる。ここではじめてキャラクターたちは、舞台の上で、(窮屈な集合写真のようにではなく)音楽とともにいきいきと動くことが出来るようになる。
そして三つめの作品。ここでは、風景ともキャラクターとも異なる、「個物」が喜びとともに発見されているかのようだ。鮮やかな色の布の上に、鮮やかな色の糸で、しかし、キャラクターほどの凝縮された密度ではなく、やや緩やかな感じで刺繍される、レモンや、アイスや、コップや、Tシャツ等々の個物たち。これらの物たちのイメージの上には、多くの作品で「せーの」というかけ声のような言葉が刺繍されている。「せーの」というかけ声とともに浮かびあがる(かけ声によって導かれる)物-イメージたち。さらに、「わくわく小惑星」というようなフレーズ(うろ覚えなので正確ではない)がレモンのイメージの上に刺繍され、その下に改めて「レモン」という文字が確認されるように記されされたりしている。ここで、フレーズとレモンのイメージとの関係性はよく分からないのだが、「せーの」というかけ声や、「わくわく小惑星」といったリズミカルなフレーズと共に、レモンのような個物のイメージが生まれてくるというのがとても面白いように思う。
ここで生まれた鮮やかさをもった個物のイメージが、今後、風景やキャラクターとどのような関係をもつのか、あるいは、ことさら関係をもつ必要はないのか、ということへの興味も湧いてくる。