●『パラノーマル・アクティビティ』(オーレン・ベリ)をDVDで。ホラーというより、若いカップルのごたごたをずっと見せつけられて鬱陶しいという印象の方が強い。特に男の子の非寛容なオレ様っぷりにイライラする。まあ、それがリアルだということなのだけど。ぼくには、この作品が新しい何かを開いているという感じはしなかった。これだったら、途中で方向を完全に見失っている(としかぼくには思えない)とはいえ『オカルト』(白石晃士)のフェイク・ドキュメンタリーの方がずっと面白い。あの作品は「何か」やばいものを開きかけてはいると思うから(でも『裏ホラー』を観るとあまり期待できない気もするのだが…)。以下、ネタバレあり。
完全な一人称のカメラ。つまり、この映画は虚構世界の一部である一台のカメラによって全ての映像が撮られたという設定になっている。通常、虚構世界の外(現実世界と虚構世界との接触面)に位置するカメラが、虚構世界内のカメラと完全に一致するいうトリックによって虚構世界が閉じられ(いわば虚構が全世界化して)、あたかも実録映像であるかのようなイメージとカメラとの距離感を捏造する。こういう手法それ自体は珍しくない。しかし、これが、いわゆるフェイク・ドキュメンタリーと異なるのは、ドキュメンタリーを制作する意図のある人がどこにも写っていないこと。二人の登場人物にはドキュメンタリーを制作するために映像を撮っているのではないし、最後には二人とも死んだり消えたりしてしまうので、この映像を、このような形に編集し、加工し、公開したのが誰なのかの説明が、虚構内ではつかなくなる。世界が完全に内側で閉じているからこそ、その世界全体を外側から制御する(本来封印されているはずの「この映像」を我々に見せようとしている)謎の存在Xによる操作性が強く意識されてしまうという側面(矛盾)がある。フェイク・ドキュメンタリーでは、虚構内にドキュメンタリーを制作する人たちや、その過程が(つまり、「この映像」が今、わたしの前にある理由付けが)、カメラに写り込んでいる(あらかじめ仕込まれている)のだけど、この映画では、(女性の友人と霊能者以外は)完全にたった二人の完結した世界の出来事であり、カメラの存在も含めて、すべてがこの二人のプライベートな世界に閉じ込められている。そのことが当事者的なある種の身近なリアリティを成立させているのだが、しかし、だからこそ、その閉じられたものを外へと暴こうとする(この映像をみんなに見せようとする)別の誰かの存在が矛盾として浮上してしまう。
もともと、登場人物の二人は、幽霊だか悪魔だかわからない、自分たちのまわりで起こる出来事を分析するために、それを自分たちの目で見るために、カメラを用意している。だから極端なことを言えば、眠っている二人を撮影する定点カメラの映像だけがあればよいはずなのだ(はじめから自分たちの目で見えていることまでもを撮影する必然性はないはずなのだ)。実際、ホラーとしてのネタはすべてありがちなものばかりなこの映画で、面白いのは、ベッドの脇の定点カメラの映像と、あと、なんとかボードが燃え上がる場面(これも置きっぱなしのカメラが偶然捉えたという設定になっている)くらいだった。この、定点カメラの映像だけで、二、三十分くらいの短編だったら、すごく面白かったかもしれない(とはいえ、定点カメラというイメージの起源が特定されているから、誰の視点でもないイメージである『ロスト・ハイウェイ』のビデオ映像のような気持ち悪さには及ばないと思う)。それ以外の場面は、物語の説明と、この映像がこのようにして撮られていることの説明と、説明を説明と感じさせないためのつじつま合わせに終始しているように思われた。つまり、あんまり面白くない。要するに、低予算でつくる以上こうするしかなかったという制約が、逆転して新たな表現の質の獲得になっている、という地点までは至っていない。
とはいえ、たんに退屈とは言い切れないところもある。前半は、これらの映像がこのように撮られていることと、カップルの二人の関係の推移とが必然性をもって絡み合って(このように撮られていること=二人の関係の親密さ/険悪さの表現、となっている)、つまり、定点カメラ以外の場面では、カメラの視線はほぼ二人のどちらかの視線の代替物としてある。カメラの一人称は、カメラがやりとりされることで、それを持つ人によって、男の子の一人称にも、女に子の一人称にもなり、定点に設置されることで非人称の視線にもなる(要するに、それが編集されているものである以上、普通の映画のカット割りとそんなにかわらない)。しかし途中から、なんでこの場面がわざわざ撮影されているのか分からないような(恐怖で逃げる時、カメラ持って逃げるか普通?、というような)、設定上かなり無理めな映像がけっこう出てくるようになってくる。これは設定上では破綻なのだが、しかしそのことが、二人のどちらかによって撮られているはずのカメラの映像に(完全に客観的なものである定点カメラの非人称の視点とは別の)第三者の視点の気配が混じり込んでるような感じを生じさせている。それは、虚構世界内で完全に閉じられたこの映画に開かれた、その世界の外との接触面-裂け目であり、それが視点のない視線のような感じを生む(『回路』で小雪が、本来そこにないはずのカメラの存在-視線に気づいて振り返る場面の、カメラと作中人物との不思議な関係を思い出す)。この、二人の視線からズレていって、まるで自然発生したかのような第三者の視点-気配が混じり込むところが面白いと言えなくもない。このことは、カメラの視線(撮影された映像)が、カメラをもつ人の視線を完全に代行するものではあり得ないことによって生まれる。
二人のどちらかの主観(の代替物)でも、ベッドの脇に据えられた非人称的な視点でもない、第三者の視点の気配のようなものの発生がなければ、そもそも、ラストの、定点カメラ-スクリーンに向かって、こちら側へと迫ってくるかのような女のイメージは成立しないのではないか。カメラの向こうにいるはずの、その映像を見ている誰でもない誰かを想定していなければ、悪魔に取り憑かれた女がカメラの方へとにじり寄って来たりしないはずなのだ。この時点で、定点カメラの映像は非人称的なものではなくなっている。いや、そもそも「悪魔」は、はじめからこの定点カメラに向かってパフォーマンスしていたのかもしれない(実際、現実の監督はそのように仕掛けているわけだ)。しかしだとしたら、定点カメラははじめから観察の装置ではなく表象の舞台となってしまい、「本来見ることの出来ないはずの何かが偶然写り込んでしまった」、という気持ち悪さそのものが消えてしまうのだが。中立的な観察の装置であるはずのものが、実は結果としてパフォーマンスを、そしてそれを超えた行為までもを誘ってしまう。この映画全体が、その境界の、危ういきわきわなところで成り立っている、ということか。そもそも、このカップルのごたごたの多くの部分は、たんに悪魔の出現のためというだけでなく、カメラというものの存在によって引き起こされていた。だから本当は、悪魔さえも、虚構の内部に持ち込まれてしまった「カメラ」によって引き出されたものであるかもしれない。