●『カルト』(白石晃士)をDVDで観た。あまり期待していなかったのだけど面白かった。白石晃士はホラーを多く作っているけど基本的に幽霊には興味がない人なのだろうと思った。もっと言えば、恐怖には興味がなくて、「気持ち悪さ」とか「嫌な感じ(嫌な空気)」に興味があるのではないだろうか。『ノロイ』『シロメ』『オカルト』などにみられるあの独自なテクスチャーは、Jホラー的な恐怖表現の「繊細さ」に対するある種の反感、それを貶めてやりたいという感情からきているのではないか。
白石晃士におけるフェイクドキュメンタリーという形式は、直接性や近さ生々しさ等を偽装するためのものと言うより、繊細さに対する粗野さであり、丁寧さに対する粗さであり、趣味の良さに対する趣味の悪さであり、豊かさに対するチープさであるというような、人の嫌悪感を惹起させるためのテクスチャーを呼び込む媒介としてあるよう思われる。
さらに言えば、白石晃士は、恐怖という感覚的なものの質感よりも物語の方を強く信じているように思われる。一つ一つの感覚=表現はチープで切れ切れのものなのだけど、それを束ね、展開させているのは使命感であり、あるいはミッションによる拘束である。仕事なのだから怖くてもまっとうしなければならない、偉大な神の導きに人は皆従わねばならない。そのような使命感を持つ人物が物語を生み出す。そしてそのような使命感が、人を追い詰め、場や他者の対する配慮を無効にして、「空気」をどんどん「嫌な感じ」にしてゆく。白石晃士は、恐怖の(恐怖表現の)上品さを、チープな使命感に拘束された人物たちの嫌な感じによって貶めようとしているかのようだ。
だが、彼らの使命感は、それ自体としてあるものではなく、何かに対する復讐のようなものとしてある。世界のチープさそれ自体を肯定する(信仰する)のではなく、チープさを何かに対する否定のために使う感じになっている。そこには、信仰にまつわる狂気のもつ気高さのようなもの(マッドサイエンティストにあるようなもの)はない。この感じが、面白いと思いながらも、ぼくがどうしても白石晃士の作品を好きになれないことと関係があるように思う。
ただ、この『カルト』において霊能者のネオはそのような使命感から思い切り遠い。使命感を持つ人たちが惹起する「嫌な感じ」をすこーんと突き抜ける自分勝手さに貫かれている。ネオもまたどうしようもなくチープな存在なのだが、彼は自分のチープさを肯定している。ネオの自分勝手なオレ様ぶりが、この映画をさわやかなものにしていると思う。
●この映画はフェイクドキュメンタリーになっているのだけど、ここでは、P,O,V的な主観的カメラを強調するというより、定点カメラこそが効いている。ディレクター(役の人)が持っている(という体の)主観的カメラと、建物の至るところに設置してある定点カメラの間の移動の面白さ。定点カメラによって示される映像は、非人称性や客観性というより、世界自身が世界を見ている、あるいは、家そのものが自分(家の空間)を見ているというような、自己言及的、あるいは自己観照的な感じだと思った。定点カメラ映像の自己観照的な使い方というのが、この映画を観て最も面白く感じられた点だった。