●すべてを知っている、または知り得る人などどこにもいないのだから、「知らない」ことは別に罪ではないはず。無知は罪であるという考えは、人が全能であり得ることを前提にしている点で---あるいは、万人に共通する客観的な知があり得ると考える点で---間違っていると、ぼくは思う。だから、興味のないことを(あるいは知りたくないことを)「知らないままでいる」権利は誰にでもある(否応もなく「思い知らされる」ことは避けられないにしても)。
だが、知らないことはたんに知らないのであり、知らないことを「自分が知っていることの地図」の上に先入観によって勝手に配置して、わかったような気になることは危険だ。ましてや、知らないはずのことについて自分が勝手につくりあげた「オレ様地図」上での配置をもとにして、それを判断したり批判したりすることは避けなければならないだろう。「知らないこと」に関しては、「知らないまま」でいる(判断しない)か「知ろうと努力する」か、どちらかでなければならないだろう。
とはいえ、人は(勿論、自分も)あまりにもしばしば、当然のことのようにそれを破る。「オレ様脳内地図」上の配置によって知らないことを判断し、つまり「既知の敵」の位置に「知らないもの」を配置し、攻撃さえする。本当にみんな(ぼくも)平気でそれをする(そこには当然、未知に対する不安と恐怖という避けがたい感情が絡みついている)。それをしないで何かを考えることは、あるいはそれをしないで生きることは、かなり難しいとさえ言えるかもしれない。だとすれば、人の頭はもともとそうするように出来ているのだと考えるべきかもしれない。知らないことを、知っていることの地図の上に適当に配置することでわかった気になるだけならまだしも、それに基づいて何かに対して敵意を抱き、何かを攻撃しさえする、という形の情報処理によって、人という種が地球環境のなかで生き残ってきたのならば、そこには一定の合理性があるということかもしれない。むしろそのような乱暴さが(「戦争」を含めた)コミュニケーションを可能にしてきたのかもしない。
ならば、人とはそういうものだと思って(諦めて)、それに対処しつつ、あるいはそれに耐えつつ生きてゆくしかないのかもしれない。ただ、人は、「自分がそうしがちだ」ということには気づいてしまった。人は、「自分の頭がどのように働くのか」ということについて(完璧にというには程遠いとしても)ある程度は自己言及的に知り得るくらいには賢くなってしまった。しかし、それがわかったからといって、それをどうすればよいのかまでわかる程にまでは、きっとまだ賢くはない。
せいぜい、オレ様地図上の配置を常に流動的にして、暫定的であることを「意識する」ことくらいしか、対処のしようがない。
●最近、空に向かって落ちてゆく少女のアニメ映画があるみたいだけど(深夜アニメを観ているとコマーシャルが流れる)、ぼくの小説デビュー作も、空に落ちてゆく少女の話だったと、言えば、言えないこともないので、おおっ、被ってる、被ってる、と、コマーシャルを観るたびに思う(宣伝、「群像」2011年4月号に載っています)。