●上井草のいわさきちひろ美術館で、「長新太の脳内地図」展。最近観た展覧会のなかでは断トツに面白かった。長新太のことは知ってはいたし、好きでもあったのだけど、ここまですごい人とは知らなかった。晩年の絵本作品からは、ほんとにすごい人だけが到達できる、開いてはいけない通路を開いてしまったようなプリミティブな狂気(たとえば楳図かずお『14歳』に通じるようなもの)が感じられた。そしてそれは、色彩があるということと、絵本という形式に出会ったことと関係があるように思った。
(たとえば、いわさきちひろはまぎれもなく「画家」であり、印刷物ではなく原画を観ることにとても重要な意味があると思うけど、それとは違って、長新太は漫画家、イラストレーター、絵本作家であって、その絵はあくまで印刷媒体を通して観るように描かれていて、原画を観ることそのものにはさほど重要な意味はないようにも思われる。しかし、この展示のように「脳内地図」として様々な作品が――原画と絵本とが同時に――曼荼羅のように空間的に配置されることにはとても意味があると思う。この空間をそのまままるごと頭のなかにコピーして、そこを何度も散策したいと思った。)
線の仕事をする長新太は、グラフィカルでセンスがよく、知的に抑制されたひょうひょうとしたユーモアと、その奥にのぞかせる毒とアナーキズムが魅力的であるような、高度に文化的な生産物をつくり出す人のように思われた。勿論その底には、晩年の絵本作品に通じる思考と感覚のプリミティブな躍動があるのだけど、それは、知的で文化的なフィルターによって加工されたヴェールの下に垣間見えるようにしてある感じ。
とはいえ、線の仕事にしてもその感触は、実り豊かだった6〜70年代のサブカルチャー(現在のサブカルとはまったく別のもの)の最良の部分を構成するようなもので、それ自体として十分に面白い。その、文化的に洗練された(それによって資本主義と共存可能になった)アナーキズムの感触は、その後、糸井重里から、みうらじゅんリリー・フランキーなどに受け継がれているものの核とも重なっていると思われる。
(日常においては耐え難いもの、あるいは直視し難いものを、変形、加工することで、耐え得るもの、日常と共存し得るもの、というかむしろ「楽しみの対象」としてしまえる機能こそが、文化的無意識装置とでもいうものの作用だと思う。だから「知的な文化」というのは、われわれが生きてゆくのになくてはならないものだと思う。)
だがより重要なのは絵本の仕事だ。おそらく長新太は、絵本というメディアと出会い、その仕事を長く、そして多くつづけることを通じて、徐々に文化的な洗練や知的な抑制から自由になってゆき、そして、なにかやばい通路が開きっぱなしみたいな感じになってゆく(勿論、実際にはそれを「開いたまま」にすることには大きな努力が必要だろうけど)。それは、文化によってかけられたヴェール(そこから生まれる「楽しみ」)を、ざくっ、ざくっ、と無造作に切り裂いてしまうような行為で、それはもはや「知的な文化的生産物」とは言えなくなっている。それは奇想ですらなく、そのものズバリの見たまんま、みもふたもない真理そのものをただ示す、その通りではあるけどそれを言ったらおしまいじゃないの、みたいな感じのものになる。ユーモア、たのしみ、深み、味わいといったものは、「その下に真実が隠された文化的なヴェール」によって生産される感覚だと思う。そういったものは(ほぼ)消えて、ナマのままの思考、感覚、欲望の動きがぽこっと現れている感じになってくる。
(「そのまんま」という感触とは、それ以上の分析を許さないような、それがそれとしてあることの必然性のみによってそうなっているという感じのこと。「そのまんま」の感触は、そのまんまにしていて自然に出てくるものではない。われわれは何からも常に意味を読みとり、常に何かに意味を付与する。だから「そのまんま」は、フィルターを一つ一つはずしてゆく作業と努力の果てにようやく、フィルター外しを実現できた、ごく一部の選ばれた勇敢な作家の作品のある部分に、ぽかっと現れるというものだ。)
絵本作品では晩年になればなるほど、「絵が下手な人が描いた絵」に近づいてくるし、色の組み合わせも美しいとは言い難い、「色音痴の人のやった配色」のようなものに近づく。文化的で高度な達成を示す線描の仕事とは真逆の感覚だ。だがここからは、意識的に「やばい感じ」を狙っているという感じはしない。たんに、このようなものが必要だったから、こうなっていったというのだという強い感じだけがある。
そしてそのような長新太の進展に、絵本というメディアのもつ、理由づけを必要としない、あっけなさを受け入れる感じが、強く作用したのではないかと思われた。
(たとえば、赤い花を一つだけつけ、魚そっくりの葉を一枚だけつけた、あとは太い茎一本だけの――非常に素朴に描かれた――植物があって、女の子がその前を通り、あのお花は魚が好きなのかしら、と思うと、その植物はいきなり真っ赤な猫――尻尾は魚――に変身してしまって……、みたいな展開を――しかもタイトルはそのまんま『はなねこさん』だ――ただそれとしての必然性を認めて受け入れる以外に、分析的に説明する意味があると思えるだろうか。)