2020-10-29

●世界があまりに殺伐としているように感じられるなか、マティスの「私の芸術は知的労働者のための安楽椅子でありたい」という発言の重要性について考えている。いまこそ、「知的労働者のための安楽椅子」が必要な時なのではないか、と。死なないためにも。

マティスは、第二次大戦中のヴィシー政権下でも感覚の快楽(充実)を追求していた。これはしかし、「ヴィシー政権下でも」ではなく「だからこそ」だとも言える。「安楽」や「癒やし」というと、安易で簡単なものだ(あるいは、現実から目を逸らすための「逃げ」だ)という誤解があるが、深いところでの感覚の快楽は決して安易なものではなく、癒やしもまた、決して簡単に行えるものではない(絡まった瘤はそう簡単には解れない)。それはとても困難なことで、高度な達成を必要とするし、革新的な踏み出しが必要な場合もある。そして、(少なくともある種の人にとって)そのような過程は必要不可欠のものだ。

(「癒やし」はやり方を間違えると大きな後遺症を残してしまかいねない危険なものでもあるだろう。)

クソな世界やクソな人々のなかで、それでも正気を保って生きていくためには、感覚をよろこばせ、疲労を癒やして、心をやわらかくさせ、知的な好奇心や興奮を奮い立たせられる---あるいは、現実とたたかえる---状態を静かに準備することを可能にするような上質の安楽椅子が必要だろう。それは、サウナや温泉やキャンプなのかもしれないし、ヨガや瞑想なのかもしれないし、アイドルの現場に通うことなのかもしれないし、ナイトクラビングなのかもしれないし、極上の料理なのかもしれないし、上質なドラッグなのかもしれないし、散歩と昼寝なのかもしれない。

(感覚によろこびを与えてくれるものを享受することと、いわゆる「消費する」こととは異なる。)

そのようなものと同列の位置に、芸術(や哲学など)もあり得ると信じたい。たとえば、不意をつかれる「アイデア」や、予期できないような他者からの「視点」や、信じられないようなパス回しによって繋がっていく見事な「思考の展開」や、練りに練られた極上の「概念」や「技巧」(そして、そのようなものたちを感じさせる「感覚」)によって、人が癒やされることがあるはずだと思う。というか、そういう密度と厳密さを持ったものでなければ癒やされないという人がいるはずで、そういう人たちのために開かれた「安楽椅子」としての芸術というあり方が(も)必要だろうと思う。