●A-thingsでのドローイングの展示は、今日で4週目が終わり、あと、来週一週を残すのみになりました。そこで、宣伝のため、展示風景と作品の写真を載せておきます。(画像2http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/athings2.html)これを見て興味を持った方がいたら、是非、実際に観てみて下さい。
●昨日の夜、ウイスキーを飲んで軽く酔っぱらいつつ、マティスの画集を眺めていて、フォーブ時代のマティスの絵が描かれたのが、ほぼ百年前であることに、改めて驚いた。勿論、そんなことは知識としては前から「知って」はいた。しかし、その作品(実際に観ているのはその複製なのだが)が、今、ここで、たちあげる新鮮な感覚と、それが物質として、そのように組み合わされたのが、百年前だということの間にある「ギャップ」に、何とも言えない不思議な思いがしたのだ。それは、百年も前に描かれたのに感覚がちっとも古びていない(マティスはそれだけ「進んで」いた)、とかいうようなありふれたこととは違う。例えば、百年前につくられ、今も変わらず使われているような「道具」であるなら、それが百年間使われ続けてきたという時間の厚みが、そこにしっかりと刻みつけられているだろう。その百年の重みによって、その道具の物質的な輝きが増していると言える。そこには、それを代々使い続けてきた人の手の感触さえもが刻まれているだろう。つまりそこには、百年という時間の経過がしっかりと染み込んでいる。しかし、マティスの絵画は、つい、昨日完成したものだと言われてもおかしくないようなものとして、そこにあり、ある「感覚」を観る度に常に新鮮に発生させている。つまりそこには、それが描かれてからの百年という時間が刻まれていない。このような、絵画の非歴史的なあり様とでも言うようなものに、ふと気づき、驚いたのだった。勿論、物質としての絵の具やキャンバスは、百年の時間のなかでそれなりの変質を被っているだろう。キャンバスは多少黄ばんでいるかもしれないし、絵の具も退色しているかもしれない。しかしそのような「物質」として時間を経てきたことと、その作品が、作品として発生させている感覚(意味)とは切り離されていて、作品は、今、穫れたての果実から香る匂いのような、新鮮な感覚を、それを目にする度に、その都度、たちあげているのだ。これは、作品というものが、物質をその基盤としながらも、そこに、非物質的な何かを発生させるものだ、ということを示しているのではないだろうか。