●展覧会を観てまわった。正直、ほとんど期待していなかったのだけど、パナソニック汐留ミュージアムの「モローとルオー」が予想外に良かった。
http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/13/130907/
ルオーは日本でも人気があるし(今、千葉市美術館でも展覧会をやっている)、割と充実したコレクションもあるので(パナソニック汐留ミュージアムでもコレクションしている)、日本にいても良い作品を観る機会は少なくないのだけど、モローの充実した作品を観る機会は今まであまりなかった(ブリヂストン美術館のモローはイマイチだし)。しかしこの展覧会を観て、モローが先生をしていたクラスからマティスやルオーが輩出されたことが必然であることを納得した。モローはたんに先進的な表現に対して柔軟な「良い教師」だったということではなくて、クールベと同じ意味で近代絵画の革命的な画家なのだと思った。「クールベと同じ意味」とは、次の引用のような意味で、ということだ(阿部良雄シャルル・ボードレール』からの引用)。
≪表象手段の物質性を切りつめて、表象の対象の像があたかもそれ自体として---物質的手段の助けを借りることなく---現れ出るかのような錯覚を抱かせるその際、油彩の層の薄さが、表象手段消滅の換喩となるところに、十九世紀アカデミー絵画の特徴---対象再現性ゆえに、レアリズムの名を( 誤って )冠せられる特徴---があった。他方、油彩画の物質性が現実世界の物質性のむしろ隠喩として機能することこそ、クールベによって代表されるレアリズムが、アカデミー絵画に真っ向から対立するゆえんに他ならない。≫
要するに、表象されるもののもっともらしさによってではなく、絵の具そのものに歌わせることで絵画を成立させようとするということだ。あたかもそこに本物の林檎があるかのように描くのではなく、そこにある絵の具(による表現)の存在感が、「描かれたりんご」の存在感を支えるというような絵(そこにあるのは絵の具でありキャンバスであるということのリアリティと、描かれたリンゴのリアリティが隠喩的に結びつく)。絵の具の状態を林檎の似姿に近づけるのではなく、絵の具が絵の具としての表現性---色彩、テクスチャー---を十分に発揮することが、「描かれた林檎」のリアルを支える。だからクールベのリアリズムは、トリックアート的、だまし絵的なリアリズムとは違う。
そうであれば、同様に、そこに絵の具がありキャンバスがあるということのリアリティ---絵の具の表現性---が、(目に見えて手で触れられるリンゴのリアリティではなく)目に見えず触れることもできない幻想や神話や精神性にリアリティを与えるというモローの作品も、それと遠いものではないと言える。目に見え、手で触れられるものを描くか、見えもせず触れられもしないのを描くかの違いはあっても、描かれるものに説得力を与えるための表現のあり様は同じだと言える。表象するものを限りなく後退させることで表象されるものを際立たせるというのではなく、表象するものがぐっと前景化することがそのまま、表象されるもののリアリティを支える。これは絵画に限らず、おそらくあらゆる「近代芸術」に共通することだと思う。
とはいえ、モローには弱いところがあることも事実だ。モローは「アカデミー絵画」的にしか描写が出来ない(そこがクールベと大きく違う)。だから、描写をすればするほど、「絵の具そのものを歌わせること」から離れていって、アカデミー的な絵に近づいてしまう。あるいは逆に、絵の具を歌わせることだけで作品を成り立たせようとすると、どこか中途半端(完成途上)のように見えてしまう。このバランスがギリギリにとれている場合(つまり、より少ない描写で作品を成立させられている場合)、作品はすばらしいものになる。しかし、「より少ない描写で」というのは、どこか「より少ない誤魔化しで」というような消極性を感じてしまう。モローはおそらく最後までこの齟齬を超克できなかった。
そしてそのような齟齬を超克するようなジャンプをしたのがルオーでありマティスであると思う。つまり、描くこと(表現を煮詰めること)と、絵の具そのものを歌わせることとが齟齬をきたさない、描くことがそのまま絵の具をより歌わせることであるような形式を追究したのがルオーでありマティスなのだと思う。おそらくルオーは、絵の具そのものを歌わせることをモローから学び、それをさらに先にまで推し進めていったのだと思う(おそらく、ルオーの方がマティスよりより多くのことをモローから受けとったのだろう)。
モローとルオーの作品にはとても深い共鳴があるように感じられ、二人の作品が同時に展示されることには必然性があると感じられた。
●あと、銀座のエルメス八階でやっている「クローゼットとマットレス」(スミルハン・ラディック+マルセラ・コレア)という展示も面白かった。いや、作品としては弱いというか粗いというか、もっといろいろ工夫できると思うのだけど、なんというか、すごく触発されるものがあった。
巨大な脳のような形に変形されたマットレスが天井からいくつも吊り下げられていて、そこから軸索のような臍帯のような縄が何本もにょきにょき生えて床に垂れて溜まっているという、アラカワ的でもありウメズ的でもあるような不思議なビジョンがおもろい(有機的でグロテスクなイメージではあるものの、あくまで素材はマットレスであり縄であるので、あっさりと乾いていてそっけない)。
眠っている時に身体の外側で重力を受け止めているマットレスが、夢をみている頭の内側にある脳になって、しかも宙に浮いている。それはたんに、脳の内と外(あるいは、「重力によって押される」と「上から吊られる」)とがひっくり返っているだけでなく、触れるもの(感覚するもの)=脳の表面が、触れられるもの(感覚されるもの)=マットレスになってしまっているという反転にもなっている。目が絵を観るのではなく、絵が網膜になって目が締め出されてしまっているというか。そもそも(脳が直接触れているのではないにしろ)「触れる」というのは感覚するものと感覚されるものが接しているということなのだけど、接していつつも、こちら側(触れる側)とあちら側(触れられる側)とが分かれているから「触れる」と感じる。そのこちら側とあちら側が混乱する感じ。「わたし」が「あなた」に触れていると思ったら、「わたしになったあなた」が「あなたになったわたし」に触れていた(で、その時「わたし」はどこに?)、みたいな。
ただ、美術作品としては、オブジェの作り込みにしても、空間上の配置の仕方にしても、あまりに甘すぎる感じなのだけど。あえて無造作に(ゆるゆるに)した、のだとしても中途半端だった。