●『アッチェレランド』(チャールズ・ストロス)の二部まで読んだ。これはすごく面白い。
この小説のおもしろさは、物語としてのおもしろさでも、表現や形式としてのおもしろさでもなく、世界観としてのおもしろさだと思う(物語として読むとすると、男女関係や親子関係の話だ、と要約することすらできてしまう)。世界観とは、現実(現実感)が生み出されるを媒介する虚構というか、我々は、世界観と言う虚構を通じて「現実」を構成している、というようなものだと思う。世界観という地の上に、「現実的な妥当性(リアリティ・確からしさ)」が構成される、というのか(とはいえそれは、リアリティを生み出す無意識的な次元で作動する地---とりあえずぼくはそれをパースペクティブと言ってみるのだが---とは違っていて、意識的な次元で作動する地のことだけど)。この小説で世界観は、単純な図式として示されるのではなく、次々と投入され、発展してゆく細かいアイデアのパッチワークによって、個々のアイデア間の複雑な相互干渉によって、立体的で複雑な構築物としてたちあがってくる。
たんに新奇な世界観が示されているというだけのことではなく、読む側が無意識のうちに前提としてしまっていることを書き換える、あるいは少なくとも一時的に凍結する、ことなしには読み取ることができないようになっている(つまり「世界観」を書き換えることで「パースペクティブ」をも揺るがそうとしている)。故に読み進めることはかなり難しい。この難しさは、書かれていることの一つ一つが難しいということでもなく、聞き慣れないジャーゴンが多量に使われているからということでもなく、自分の頭のなかを組み立て直しながらではないと読みすすめられないということからくる難しさだと思う(なにしろ、人間が、どんどん人間から離脱してゆく話なのだから)。
だから、夢中になって一気に読み進めるというおもしろさではなく、いちいち、噛み砕き、考えを組み立て直し、自分のなかに生まれる抵抗を意識し、そしてその抵抗を一時保留して、次に進む、ということを繰り返す、という風にしないと読み進められない。それはかなり面倒な作業だ。疑問や反感や抵抗によって相手を否定するのではなく、かといって、疑問や反感や抵抗を呑み込んでその言葉をただ受け入れるのでもなく、疑問や反感や抵抗を持ちながらも一時それを凍結する(保留する)ということをしつつ、ある緊張状態のなかで相手の話を聞いているうちに、こちらの頭のなかが少しずつ組み立て直されてゆくという感覚。「おもしろい」ということはつまりそのような面倒臭いことで、この小説にはそういう面倒臭いおもしろさがある。
●『ポストヒューマン誕生』(レイ・カーツワイル)が届いたのだが、こんなに厚い本だったのか……。