●『野生の思考』の第一章はとてもすばらしくて、何度も読み返してしまってなかなか先にすすまない。一章の最後には、器用人(ブリコルール)の仕事と科学者の仕事の中間に位置するものとしての美術が考察されている。ここで美術は、西洋美術と工芸、そして未開美術の三つに区分されながらも、どれも「事物+出来事」(つまり偶発性)から出発して「構造」の発見にむかう点で一致しているとされる。ただ、偶発性には三つの層があり、(1)西洋美術、(2)未開美術、(3)工芸では、その「主な偶発性」があらわれる時期が異なるという。それは(1)制作に先立つ偶発性としての「機会(その時の世界の状態、風俗、モデル)」、(2)「制作(制作の内にある偶発性、メディウムの抵抗や、技法・材料による限定)」、(3)制作後の時間から逆算される「用途(用途・目的が制作を限定する)」とされる。勿論、すべてがすべての偶発性を内在するのだが、その配分が異なるのだ、と。だからここで偶発性とは、制作を限定すると同時にそれによって方向づける、制作のための語彙のようなもの(神話の素材である出来事の残片とかわらない)で、美術家は偶発性と対話し、偶発性のなかから知性や感性でとらえうる構造をみつけだすとされる。
ここでレヴィ=ストロースが、西洋美術と未開美術に「配分」は異なるとしながらも同一の構造を見出しているのが面白い。西洋世界と未開世界は、異質な世界ではなく、同じ根から出たが育ちの異なる似ていない双子のようなものとして捉えられている(さらに、器用仕事と科学の間に媒介的に美術を置くことで、器用仕事と科学が必ずしも切断されたものではなく連続的であることも示している)。この点が現在にまで波及させる影響はとても大きいと思う。
●それはそうと、美術の魅力の第一のものとして、それが「縮減模型」であることが挙げられている。システィナ礼拝堂でさえ、それによって描かれる「最後の審判」そのものよりはずっと小さいのだ、と。《現実の物体を全体的に認識するためには、われわれはつねにまず部分から始める傾向がある。対象がわれわれに向ける抵抗は、それを分割することによって克服される。寸法の縮小はこの状況を逆転させる。小さくなれば、対象の全体はそれほど恐るべきものとは見えなくなる。》《相同体を介して、物をつかみ、手にとって重さをはかり、一目見るだけで知ることが可能になるのである。》ここで言われているのは、物事の詳細な分割的把握と、一挙的な全体的把握という二種類の把握の仕方であろう。美術作品が「祝滅模型」であり得るのは、前述したように、そこに既に作者によって構造が発見されているからだ。それを観る者は、現実のなかに構造を見出すよりはたやすく全体を発見できる、と。ここで面白いのは、次に挙げられた具体例だ。
《子供のもつ人形はもはや敵でもライバルでも話し相手でさえもない、人形の中で、また人形によって、人間が主体とかかわるのである。原寸大の物ないし人間を認識しようとする場合とは逆に、縮滅模型では全体の認識が部分の認識に先立つ。》
つまり、子供にとって現実の大人(人間)は複雑で力もあり過ぎて、その全体を人間として捉えることは困難であり恐怖を伴うから、その縮滅模型である人形のなかにまず「人間」(という全体・概念)を見出す。子供はまず人形に対して、人間に対する関係、感情や愛着を育み、発達によってある程度の複雑さを許容するようになって、「人間」が、同年代の子供や大人へと移行し(投射され)てゆく。だとすれば、人形こそが、人間にとってオリジナルとしての原-人間であり、現実の人間は人形の似姿に過ぎないということにもなる。人形が人間に似ているのではなく、人間が人形に似ているに過ぎないのだ、ということになる。
このような考えは、例えば鏡像段階という概念より豊かであるように思う。鏡像段階からは「人と人の関係」しか出てこないのだが、上記のような考えならば、「人と人との関係」がそのまま「人と非人との関係」へとずれ込んでゆくことが可能だから。そしてこれは、想像界がそれ自体で象徴的に機能しているということだ。