2021-06-07

●「計算する」という行為のもつ独自の不思議さがある。計算は、決定論的な予測不能性というものを我々に思い知らせる。たとえば、思いつきで適当に「32568+14325-7832」という単純な式を考えてみる。この答えは、当然だが計算する前から既に決まっている。しかし、実際に計算してみるまでは、その答えを予測することが出来ない。決まっているが、知ることはできない。計算するプロセス(計算する時間)を経なければ、答えは得られない。ならば、卵が時間をかけて鶏に成長するように、「32568+14325-7832」が計算される時間(計算するという行為)を経て「39061」に変化すると言えるのだろうか。しかし、卵は、鶏になる前に死んでしまうかもしれないし、鶏ではないものに突然変異するかもしれないが、「32568+14325-7832」が「39061」以外になることはない(計算を間違えなければ)。計算行為がルール通りに行われれば行為による結果に変化の余地はない(計算という行為は結果に影響しない)。だが、計算時間をゼロにすることも出来ないので、予測不能性は消えない。実際に計算してみない限り「39061」は得られない。

計算可能であるが、計算するのに膨大な時間がかかってしまうために予測不能なままであるものがある。計算機の発達によって予測可能なものの幅がひろがったとはいえ、我々はまだ、くしゃみによって広がる飛沫の状態を予測するくらいがせいぜいだ。この世界(この宇宙)が、そういうものなのかどうかということで、決定論と非決定論が分かれる。この宇宙の終末がどのようなものであるのかを計算するより前に「宇宙の終末」がやってきてしまうとすれば、決定していたとしても結果は予測不能なままだし、計算結果と「宇宙の終末」が同時に訪れるとすれば、計算過程と時間とがぴったり重なり、計算過程=時間となる。そもそもこの宇宙が「神が何かを計算している計算過程ではないか」と考えることもできる(この宇宙そのものが、この宇宙で最強の計算機である、と)。神すらも「計算してみる」ことなしには答えが分からないのかもしれない。

このようなことを思い返したのは、奥村雄樹による「コンセプチュアル・アートの遂行性──芸術物体の脱物質化から芸術家の脱人物化へ」を読んだことによる。

https://www.artresearchonline.com/issue-2a

ここで書かれているのはタイトルが端的に示す通り、コンセプチュアルアートというものを、ジェゼフ・コスース由来のもの(芸術物体の脱物質化)ではなく、ソル・ルウィット由来のもの(芸術家の脱人物化)として考えるということだ。

ここでコスースは、コンセプチュアル・アートのコンセプトをルウィットから「乗っ取った」とまで強く非難されている。コスースにとってコンセプチュアルアートの作品とは、結果として制作された物質ではなく「アイデア」そのもののことであり、つくられた物質はアイデアを正確に伝達するための媒体でしかないことになる。この時、「アイデア」は考え、練り込まれた末の終点としてあるものだ。ルウイットもまた、最も重要なのは直観的に思い浮かんだ「アイデア」だとするのだが、このアイデアとは作者に降りてきた啓示のようなものであり、出発点となるものなのだ、と。

《両者の差異は「アイディア」の定義の違いに端を発するものだろう。それが意味するところは明らかにルウィットにとっては作者が直観的に思いつく(いわば作者に降りてくる)何らかの行為の計画だがコスースにとっては作者が論理的に練り上げる理念や意図である。前者は現実世界で実行されることで何らかの偶発的な出来事をもたらす。最終的に表明されるのはその記録物(ドキュメンテーション)である。後者は偶発的な出来事が生じることを許さない。作品の物理的な形体は本人も「哲学のあとの芸術」で述べるとおり「芸術家の意図の提示(プレゼンテーション)」なのだ。》

《(…)どちらの場合も実行者は「主観性を回避」して機械的に制作に臨むだろう。しかし主観性を回避しながら従う対象は---ふたたび野球に喩えるなら---ルウィット流ではルールのみだがコスース流では投げて打って走ることの内容すべてである。後者では試合内容も試合結果も事前に決められている。しかし前者では何が起こるか分からない。実際にルウィットは「諸文」の草稿に「コンセプチュアル・アートの作品の価値はその予測不可能性にある」と書いていた》。

《つまるところルウィットの「コンセプチュアル」は「コンセプション(着想)」の形容詞形でありコスースのそれは「コンセプト(概念)」の形容詞形であると考えて差し支えない。》

ルウィットにとってコンセプチュアル・アートとは、《「作品制作の全過程において芸術家の偉大な感性が芸術を構成する」芸術ではなく「作品の原点にある着想(もしかしたら直観)」にこそ「初源的な重要性」を見出す芸術である(先述のように着想時のアイディアそれ自体が重要だからこそ「作品は筋道から逸れることなく実施される」必要がある)。》

最初にルールがある。このルール自体は無根拠に「降りてきた」ものでしかない。しかし当初に置かれた無根拠なルールは、この後、何があっても変更してはならない。芸術家は、無根拠なルールのひたすらに忠実な遂行者となり、ただ行為を続けることになる。芸術家はルール通りのミッションを遂行するだけの媒介となる(芸術家の脱人物化)。故にコンセプチュアルアートは観客を必要とせず、世界から与えられたもの(降りてきたルール)を、ひたすら世界に向けて打ち返す(ルールの忠実な遂行を続ける)ものであり、その効果は観客に向かうのではなく世界そのものへ向かう、とされる。

ここで書かれている、ルウィット的なコンセプチュアル・アートの制作者の「行為の遂行」が、「計算する」という行為の遂行の奇妙さを思い出させたのだった。とはいえ、「計算する」という行為は偶発性を呼び込むことはなく、ただ「計算する」という行為によってしか得ることの出来ない予測不能な解をもたらす。その点で、あらかじめ目的(到達点)が確定している、コスース的なアイデアのプレゼンテーションとしての行為(制作)とも異なる。計算は、ルウィットとコスースの中間にあると言えるかもしれない。

また、ここで書かれているようなコンセプチュアル・アートの非人物化された遂行性は、どこか、ラカンのサントームという概念を思い起こさせるところがある(6月1日の日記を参照)。

《パフォームとは「完全に[par-]」「提供する[fornir]」ことである。特定の行為を定められたとおりに完遂する---やり抜く---ことこそが「パフォーマンス」なのだ。ゆえにそれは観客がいなくても遂行者のみで成立する(実際に所謂「パフォーマンス」の現場で私たちがしばしば出会うのはこちらに目もくれず行為に没頭するパフォーマーの姿である)。観る[theasthai]ことと切り離せない「シアター」とは根本的に異なるわけだ。コンセプチュアル・アートの制作行為はこれらの美術史的および語源的な特質---遂行性(パフォーマティヴィティ---と見事に合致している。そこで芸術家たちはおのれの肉体を用いて私たちが生きる通常の空間の内側で多くの場合たったひとりで何らかの行為を敢行する。観客もいない。》