2021-06-06

●『今ここにある危機とぼくの好感度について』、最終話をようやく観た。松坂桃李ビルドゥングスロマンだと思っていたら、実は松重豊ビルドゥングスロマンだった、と(松坂と松重はいわば、二人で一組のデコボココンビでもある)。五話全体としての流れは、最初に鈴木杏による真摯な問題提起があり、結局それは潰されてしまうのだが、その問題提起の影響はその後もくすぶり続けていて、それが松坂桃李を動かして徐々に変化させ、ひいては松重豊までを動かすことにつながる(松坂は、鈴木のインパクトを松重まで伝える道化的な媒介者といった役割りと言える)。それまでお飾り的な存在だった最高権力者が徐々に自分の責任を自覚し、それを引き受ける覚悟をもつことで、事態が動くことになる。最初のインパクトは鈴木杏である。そして、この、全五話を通してなされる展開は、そのまま、第一話の展開とほぼ同じ構図になっている。

第一話の展開と、ドラマ全体の展開とが、異なるスケールで同型であるというフラクタル的な構造になっている。フラクタル構造になっていることによって、一度は敗北し、排除されたかにみえた鈴木杏の問題提起(鈴木杏の存在)が、同じ形式の拡大形のなかで、同じ経路(鈴木→松坂→松重、またその支流として、鈴木→池田成志嶋田久作→松坂→松重)で回帰して一定の成果をあげ、それが決して無駄ではなかったということが示される(とはいえ、一話の松重の決断が、二話で骨抜きにされてしまったように、ここでの決断もまた無意味化されてしまう可能性は充分にある)。鈴木杏の存在はいわばフロイトが「幻想の未来」で書いた「知性の声」のようなものだろう。《The voice of the intellect is a soft one, but it does not rest until it has gained a hearing.》全体としてのこのような構成は(素晴らしく面白いとは思わないが)悪くないかもと思った。

(このフラクタル構造はまた、同じ問題が拡大されて反復されていることを示すものでもあり、同じ問題が大小様々なスケールをもつ様々な場において反復されていることを示すものでもあろう。)

好感度しか気にしていなかった松坂桃李と、事なかれ主義のお飾りの王だった松重豊という師弟コンビが、鈴木杏インパクトによって変化する。これにより示されているのは、自分の責任を自覚しているまともな強いリーダーが必要だ、あるいは、それぞれが自分の立場で取り得る責任をきちんと全うすべきだ、という、誰もがそう思っているけど、実際はなかなか難しい、常識的な見解だろう(というか、常識の再確認が促される、と言うべきか)。知性の声は本当に、人がそれを聞き入れるまで止むことが無いのか。

ただ気になったのは、最終回の展開があまりにエンターテイメントの定石通りという感じに盛り上げたり泣かせたりするもので、しかもまさに「オレたちの闘いはこれからだ」エンドという終わり方であることで、もう少し野心的ななにかがあってもよかったのではないかと思った(テレビドラマにおける「わかりやすさ」との闘いがもう少しあってもよかったのではないか…、と)。

●追記。上述したフロイトの「幻想の未来」の引用部分が英語なのは、手元に本が見つからず、検索してパッとみつかった英語訳で一時的に代用したから。下に、中山元・翻訳の日本語での当該部分をやや長めに引用します。光文社古典新訳文庫、『幻想の未来/文化への不満』の109ページより。

《たしかにわたしたちは、人間の知性の力は、欲動の生の力と比較すると弱いものだと、繰り返し強調してきたし、それは正しい主張なのである。しかしこの知性の〈弱さ〉には、ある特別の要素があるのだ。知性の声はか弱いが、聞きとどけられるまでは、黙することはないのである。繰り返して拒否されても、やがて聞きとどけられるものなのだ。そこに人類の将来について楽観できる数少ない理由の一つがある。》