●『今ここにある危機とぼくの好感度について』、第三話。変わらず、現実や権力のあり様を単純化、紋切り型化しすぎていることで、批判の論点がブレてしまって、何が言いたいかよく分からなくなっているように思うのだけど。ただ、松坂桃李のキャラはだんだん面白くなってきている。
気になったのは、イベント推進派の教員や学生たちに、苦情を直接受け止めている広報課の職員へのケアについての意識がないこと。推進派教員は広報課長に「申し訳ないが、そこは我慢してください」と言うだけだ。リベラルにありがちなブラック労働容認的空気(言論の自由のためには広報課職員が犠牲になるのも仕方ない的な感覚)への批判的視点がないように思う。
(かろうじて、広報課の女性職員が「わたしもう耐えられません」と課長に泣きながら訴える場面があるが、松坂桃李の「心のない」対応との対比による笑いで流されて、この問題についてこれ以上深く触れられることはない。)
総長が、上からの権限でイベントを強引に実施する時に、もっとも大きな負担を受けるのは、増え続けるであろう苦情を受け続けなければならない広報課の人たちではないかと思う。ジャーナリストや観客を守るために警備を強化することは出来るが、広報課の職員たちを守るための対策はどのようにすれば可能なのか。こういうところに、現実的に困難で大きな問題があると思うのだが。
ただ、総長(松重豊)が本音を言い出すと「英語」になる、というのは皮肉が利いていると思った。総長は日本人には期待していないということが(それが無意識だとしても)、これによって表現されている。「意味があること」を言う時には英語で言う。日本語は国内コミュニティにしか届かず、故にそこでの事情に縛られ、国内でのポジション取りのための抗争の道具にしかならないからむなしい、という諦観は(残念だけど)リアルだと思った。