●引用。メモ。座談会『世界共和国へ』をめぐって(「at」4号 柄谷行人浅田彰高澤秀次萱野稔人)から、萱野稔人柄谷行人の発言。(P18〜19)
萱野稔人の発言
《世界共和国をどのように考えるかというのは非常にポレミークな問題ですね。個々の国家を上から抑えるだけの力をもった審級をつくるということは、世界大の国家をつくることと同じことになるのではないか、と。柄谷さんは、諸国家をこえる力をもつ審級がどのように形成されうるのかという問題をカントとヘーゲルの対立というかたちで説明しています。一方には、諸国家が少しずつみずからの主権を委譲してゆくというあり方(カント)があり、他方には、メチャクチャ強い国家がひとつでてきて他の国家を抑え込んでしまう(ヘーゲル)がある。この対立はじつは、ホッブズにおける「設立による国家」と「獲得による国家」の差異と完全にパラレルです。「設立による国家」というのは、みんなが「私たちは勝手に暴力を使いません」というかたちで、特定の人間なり組織なりに権力を委譲してゆくというものです。同意や協議によって国家が設立されてゆくというパターンですね。もう一方の「獲得による国家」というのは、柄谷さんも『世界共和国へ』のなかで援用されていますが、強いやつがでてきて「殺されたくなかったらオレのいうことをきけ」というかたちで主権が打ち立てられるというものです。で、ホッブズの契約説にかんしていうと、現実的なのは後者のほうだけです。「設立による国家」のほうはつねに論理的なアポリアを抱え込んでしまって、現実的には実現不可能です。そうすると、世界共和国の形成についても、むしろヘーゲルのほうにリアリティがあるというはなしになってくる。(略)》
●それを受けての柄谷行人の発言
《実際、ヘーゲルにもとづいて、世界最終戦争とかいう論理が出てきました。日本陸軍の参謀であった石原完爾もその一人ですね。しかし、どこかの国が決定的に勝利して、他国を強制するという形態はありえないと思います。必ず、それに対抗する者がでてくるからです。むしろ、世界共和国は、どの国家も敗北するというかたちで実現されるのではないか。
カントは人間の善意ではなく、その非社会的社会性こそが国家連合をもたらすといった。それはヘーゲルのいう「理性の狡知」に対して、「自然の狡知」と呼ばれていますけど、非社会的社会性(敵対性)は、具体的には、戦争としてあらわれる。実際、カントの構想にもとづいて国際連盟ができたのは、第一次世界大戦後の一九二〇年です。石原莞爾も戦後には、戦争放棄を唱えています。彼は「世界最終戦争」ののちに、ヘーゲルからカントに到達したのだと思う。
この本では言及しなかったのですが、僕は以前に「カントとフロイト」という論文を書きました。初期フロイトは、超自我は親とか社会の内面化であると考えていた。第一次世界大戦後、死の欲動という概念を得たのちに、彼は超自我が外ではなく、むしろ内部から来るということをいいはじめたのです。超自我は、自分の死の欲動が外に攻撃性として発露されたとき、それが自分に対して内攻的に戻ってくるときに生じるという。さらに、彼は、集団も超自我をもつといっている。こうした考えはカントに似ていると僕は思った。たとえばカントのいう非社会的社会性(敵対性)はフロイトのいう攻撃性に似ているし、また、カントはそのような敵対性の結果、諸国家を規制する国家連合の体制ができるといっているわけです。》
《国家を規制するような超自我は、戦争をとおして、さらに、敗戦を通してもたらされると、僕は考えました。日本やドイツの戦争放棄は、そういうものだ。それは勝利したアメリカによって強制されたという人たちがいるけど、そんなものではない。それはやはり内側からきたと思う。(略)アメリカは他の強国には勝つとしても、ベトナムのような相手には勝てなかった。今度は、おそらく、イラクでも負けるだろう。そうすると、また、アメリカ国家は超自我を回復するかもしれない。そうなると、現在の国連とは質的に異なるような国連を形成することが可能になります。(略)つぎに世界戦争が起こったとしたら、それに勝利して悠然としていられるような国はありえない。結局、カントがいったことを実行することになるでしょう。》
●国家の揚棄(世界共和国の実現)が、グローバルな資本の動きや、マルチチュードによる世界同時革命によって実現するのではなく、戦争と、その「敗北」によってなされる、段階的な(国連への)主権の委譲によってのみ(自然の狡知によってのみ)、その可能性が開かれる、という柄谷行人の「苦い認識」は、英米ラカン派(ジジェク派)にも近いと思われる。コプチェクの『〈女〉なんていないと想像してごらん』でも、フロイトの攻撃性の議論を引きつつ、リベラリズムにおける「正義」が批判されていた。