●『シュタインズゲートゼロ』は三話まですべて三回以上は繰り返し観ていて、非常に面白く、今後への展開への期待が高まるのだけど、ただ、この物語の弱点の一つとして、未来のディストピアのあり様があまりリアルではないという点がある。タイムマシンに関する多国間の利害対立によって第三次世界大戦が起る、というのだけど、そこでイメージされている「国」や「戦争」は、あくまで二十世紀におけるそれがモデルにされている。しかし、未来の「国」や「戦争」のあり様が、そんなに二十世紀的なものなのだろうかという疑問がある。
たとえば、下にリンクするクーリエ・ジャポンの記事(ピーター・ティールが「世界の終末」に備えてニュージーランドへ“逃げる”理由 Vol. 1)によれば、『The Sovereign Individual(独立個人)』という、テック系のリバタリアンに支持されている本があるという。《1997年に出版された本書は、ティールが「最も影響を受けた本」だと発言したことから、テック系の人々の間で最近ちょっとしたカルト的人気を得ている(ネットスケープの創業者マーク・アンドリーセンも同書を推薦している)。》
https://courrier.jp/news/archives/119956/2/
本の内容は以下のようなものだと記事には書かれている。
《『独立個人』が描くのは、ポスト民主主義の暗い未来像である。中世の封建制度の崩壊とどこか共通する世界を描写しつつ、本書はビットコインの発明の10年前にすでにオンライン・エコノミーや仮想通貨の出現を驚くほど正確に予言している。》
《400ページ以上も続く同書のヒステリックなほど声高な主張は、およそ次のようなものだ。》
《1)民主国家は基本的に犯罪カルテルのように機能している。道路や病院や学校といったものをつくるために、まじめな市民にその資産の大きな割合を差し出すよう強要する。》
《2)インターネットの普及や仮想通貨の出現によって、政府は個人間の取引に介入したり、収入に課税したりすることができなくなる。これにより個人は、民主主義の「政治的みかじめ料」から解放される。》
《3)その結果、国家は政治的実体として時代遅れなものとなる。》
《4)そのような国家の残骸から、新たなグローバルシステムが生まれる。そこでは「知的エリート」が権力と影響力を誇り、「独立個人」という階級として「大量の資源を支配」する。彼らはもはや国民国家の支配を受けることなく、自らに有利に働くよう国のあり方を変えていく。》
リバタリアンは、個人の自由と自己責任とをもっとも強く尊重するべきだと考える人たちで、そのため「国(政府や官僚組織)」の権力や規模はできるだけ小さくすべきだと考え、教育や医療や社会保障や社会のインフラのために税金を支払うことをひどく嫌う。それは利己的な理由に基づくというより、彼らの思想であり、信仰に近いものだろう。自由と民主主義が両立不可能であれば、民主主義は否定される。そのような人たちにとって、現代のテクノロジーは大きな味方となっている。
《民主国家は死に絶え、ゆるい連携を保った企業都市国家が出現する。いまあるような西洋文明は今世紀中に終わりを迎える。そして「新たに出現する独立個人は神話に登場する神のような存在となる。一般市民と同じ物理的環境にその身を置きつつも、異なる政治的次元に存在する」と、本書は記す。》
たとえば、ネットフリックスのドラマ『オルタード・カーボン』では、メトと呼ばれる、ごく少数の、不死を得た大富豪たち(まさに天空の城に住む)によって世界が支配されている。彼らは「死なない」ので支配は永遠で支配者が入れ替わることすらもない。彼らは好き放題に振る舞い、警察や政府すらも彼らの傘下にあるようなものだ。しかしそれでも、殺人の証拠を、あらゆる人々がみとめざるを得ない形で明確に示されれば---彼らの強大な権力をもってしても隠蔽に失敗した場合は---警察に逮捕され、失脚する。つまり、彼らよりも「国の定めた法」の方が辛うじて上位にあることになる。
しかし、完全に「独立した個人」が、国と対等かそれ以上の力をもっていれば、そもそも彼らは国が定めた「法に従う」必要がなくなる。法の根拠は国であり、国が法に従わせる究極の根拠は国が有する暴力であろう。例えば、どんなに力の強い人でも、個人としてアメリカの軍事力や警察力に勝つことは不可能だろう。そうである限り法に従うしかない(たとえば、スノーデンは個人としてアメリカという国に勝ったのであり---国家の法=暴力から逃げ切れた、という点で---その意味で、リバタリアンのヒーローであろう)。しかし、もし超強力なAIを個人が所有できて、アメリカ軍などを自由自在にクラッキングすることが可能になれば、その人は自ら原子力潜水艦や核ミサイルを所有することなく、「国」に対して対等かそれ以上の位置に立つことができる。
つまり、個人であろうと、企業であろうと、国よりも強力なAIを所有できた時点で、「国」と対等かそれ以上の力をもち、事実上「法の外」に立つことができる。そうなれば彼らは、まったく税金を払う必要もなくなり、それどころか彼ら自身の定めた自らの法(自分の心)にのみ従えばよいことになる。
(これは「国」についても同様で、どの国よりも強力なAIを所有した国は、他の国との関係を一切考慮することなく---と言うか、事実上支配下におき---自由に振る舞えるだろう。)
これは究極の「独立個人」であり、アナーキストであるリバタリアンの究極の目標なのだろう。現代のテクノロジーは、それを可能にするかもしれない。そして、それにもっともリアルに感じているのがテック系のエリートたちであろう。
(たとえば、古い話でいえば『太陽を盗んだ男』は個人が原爆をもつことで日本という国に対して「独立個人」であろうとした話だとも言える。)
勿論、このようなカルト的リバタリアンとも言えるような極端なことを考えている人は、ごく少数であるだろう(そもそも、ごく少数の「成功した大富豪」でもなければ、すくなくともそれを「夢見ることが出来る人」くらいの能力に恵まれていなければ、「独立個人」となれる可能性などないのだし)。ピーター・ティールがそう考えているとしても、ビル・ゲイツマーク・ザッカーバーグはそうは考えないだろう。
とはいえ、「独立個人」的な思想をもつ人の多くは、莫大な資産を有しており、莫大な力を有しているので、この世界の力のバランスに対してきわめて大きな影響力をもつと思われる。それはすくなくとも世界の動向に今までとはまったく異なる種類の(あるいは「国際政治」を追ってもまったく見えてこないステルス的な)アクターが大きな影響をもつということであろう。彼らは、彼らのとってのユートピアであり、おそらく我々にとってはディストピアであるような世界を目指して活動しているだろう。
●そして、このような(国VSリバタリアンの)ディストピアを回避する可能性もまた、現代のテクノロジーのなかにあると思われる(ブロックチェーンやスマートコントラクトなどの使い方)。「独立個人」という思想は、ニューエイジ的な、カウンターカルチャー的な、ハッカー的な「自由」の思想が、テクノロジーを得てとてつもなく成功を治めるなかで古くからの資本主義的な価値観---タックスヘイブンを可能にし、維持させもするような---と不可分に絡まりあって(もう一方に二十世紀の共産主義の悲惨な失敗に対する反省や反発もあるだろう)「こじらせて」しまったものとも言えて、それに抗するのもまた、同様の根をもつ思想---ニューエイジ的でカウンターカルチャー的でハッカー的な思想---の別の側面から発するものだと考えられるのではないか。