●『地界で考える社会正義』(金子守)という本を読んだ。タイトルも、装丁のデザインも、小栗判官(≒閻魔大王)と経済学者とが地獄の入口で「社会正義」について議論する戯曲という形式で書かれているという点も、パッと見は、どこをとってもあやしいトンデモ本にしか見えないのだけど、著者の金子守という人はゲーム理論の研究者としてすごく有名な人だ。
この本では、哲学や倫理学からくるものとは違った方向から社会正義について語られている。とはいえ、この本は完結していない。ここでは、社会正義を実現するための思想(あるいは、社会正義について考えるための前提としての「歴史」)が語られるのだけど、では、具体的にどうすればそれが可能なのかはあまり書かれていない。この本は第一部であり、第二部の『現世で考える社会正義』とあわせて完結することになっているのだけど、2007年に第一部が出版されて10年たっても、第二部は出ていない。すごくこのつづきが読みたい。
この本で社会正義を実現するための原理として挙げられているのが「人類共同体原理」だ。それは、《各個人の体も才能も人類共同体からの借りものである》という主張だ。一見、共産主義的なものに思われるけど、中央集権的な共産主義とはまったく異なる。この原理は、次のような恐ろしい帰結を生む。
《すべての人が拒否権を持ち、巨大水爆のスイッチを持つ。それですべての人が既存の社会制度から自由になれる。え〜と、飢餓で死につつある農民と、のほほんと生きている地主に等しい力を与えるためには、そのどちらにも二人のすべての権利を破壊する力を与えればよい。う〜ん、これは相当恐ろしい考え方だ。自爆テロについても考えておく必要があるな。》(P282)
このような、強制される破滅的な無知のヴェールとでも言える思想から、一体、どのような具体的な落としどころとしての社会制度の形が導きだされるのだろうか。この第一部で具体的に示されているのは、政治的には民主主義、経済的には資本主義でいきつつ、しかし、政治的には多数決の力に、経済的には私的所有に、かなり大きな制限をかけるという、割と常識的なものしか出てこないのだが。私的所有は基本的には否定されつつ、しかし部分的には認めざるを得ない(自由な経済主体による経済活動を認めないと経済は上手くいかない)。基本的人権や自由は尊重されなければならないが、しかしそれに重きを置きすぎると集団的な意思決定が出来なくなって、民意が反映されなくなってしまうので、制限された多数決による決定は必要だ、と。原理と具体例があまり結びついていないようにみえるのだが、このへんについては第二部で詳細に語られるのだろうと思う。
(あと、疑問として、「人類共同体」だけではなく、「(太陽を含む)地球環境圏全体」からの借物だ、としないと成り立たないのではないかという気がする。)
●面白かったのは、哲学や倫理学では通常、正義というと「個」がどのように振る舞うべきか、どのように考えるべきか、という話になるけど、ゲーム理論の貢献として、個による良い行いと、社会的に良い結果が出ることとは、必ずしも結びつかないことを証明した点があるとされ、つまり、「社会正義」を考えるためには、個の倫理や道徳からそれ切り離して考えるべきだ、と主張されているところだ。
そこで思い出すのが、ザッカーバーグニューアーク市の教育の荒廃を改善するために一億ドルの寄付をしたけど結果として失敗した、という話だ。以下のブログの記事は六万字(原稿用紙で150枚くらい)あって、ちょっとした中篇小説並みだけど、すごく興味深い。「シリコンバレーのエンジニアが語る、誰にも悪気はなかった話」
http://chibicode.com/the-prize/
ここで重要なのは、この話に出てくる主要なアクターたちは皆、本気でこの地区の教育環境を良くしたいという善意と信念から行動しているという点だ。多額の寄付の一部を自分の懐を肥やすために利用しようとは考えず、様々なアクターが自分の立場から真摯に取り組み、そこに二億ドルもの資金(半分はザッカ―バーグの寄付だ)が入ったにもかかわらず、何も生み出せず、良くなるどころかかえって悪くなってしまった、と。
《そして2億ドルは、ニューアークの学力向上にほとんど寄与しなかった。寄与するどころか、公立校の学力テストの点数は下がっている。雇用改革も中途半端に終わり、「成功モデルを作り、アメリカ全国に広める」ことも、掛け声に終わった。》
●『地界で考える社会正義』の話にもどると、「飢饉」が必ずしも自然災害とは言えないとするところが興味深かった。自然災害ではなく、社会制度の問題である比率が大きい、と。
《(飢饉があっても)大概の場合は全体が生き延びるだけの食糧生産量はあったはずだ。どの場合も支配者階層は全く問題なく生き延びている。》
例えば、地主たちはむしろ、飢饉によってますます肥えていった。地主たちは「法」を根拠にしてそれを行う。
《貧しい自作農家はひとたび凶作となれば借金の担保として土地が奪われる。しかし、地主達には金があり、この時ぞと土地を買占め、益々大きな大地主に発展していく。》
《地主達の多くは法を合理的にそして最大限に有効に使って、飢餓を乗り越えるのです。》
つまり、飢饉のおかげで地主は合法的に自作農から土地を奪うことができる。土地を奪うことで自作農を小作農として支配できる。法は既得権者がつくるので、支配者たちの利益になるようにつくられる。ある特定の支配者や地主がわるい奴だったからこうなるのではなく、私的所有を認めると、人類はどの時代、どの地域でも、同じようなことになっている(個としての資質の問題ではない)、と。だから、そうならないメカニズムのデザインを考える必要がある。
(例えば、北欧の福祉国家や、「早稲田文学」で奥野克巳が書いていたプナンの人々の社会は、そうならないための社会設計の一例として考えられる。)