●ラトゥールをもうちょっと読みたいと思って『科学論の実在---パンドラの希望』を買い、タルドも読もうと思ったのだが、パラパラみてみたら、いきなりだとちょっときつそうなので、日和って、『ガブリエル・タルド---贈与とアソシアシオンの体制へ』(中倉智徳)というタルドの研究書を買ってみた。
ガブリエル・タルド』は、最初の方にある「本書の概要」までを読んだだけだが、タルドの発想がすごくラトゥールと近い感じなので驚いた。ここでは、タルドの社会理論が「調和的統治術」だと書かれているが、ラトゥールもまた、今まで視野の外に置いていたハイブリッドを視野に納めることによる「管理生産(近代の暴走に対する、減速、緩和、制御)」を主張していた。
●引用、メモ。タルドの社会理論が「調和的統治術」である四つの根拠。
(1).信念と欲望の伝播。実践的三段論法。
タルドは先ず、人間の精神的な作用を三つ、すなわち信念、欲望、純粋感覚に還元する。》《感覚は個人的なものであるがゆえに伝達不可能であるが、信念と欲望は、個人のあいだでコミュニケーション可能であると、位置づけられている》。
《社会的個人は、欲望を大前提、信念を小前提とし、結論として「行為の義務」が導出されるような「実践的三段論法」に従って行為するとみなされている。つまりタルドにおいては、個人の行為を決定する要因である信念と欲望が、個人間で伝達されているのである。》
ベンサム流の功利主義は、快という感覚量に基づいており、かつコミュニケーションしない個人を前提にしてい》るが、《タルドによる「道徳の代数学」は、快の追及および苦の回避を善とするような快楽=効用を基準とする善悪判断ではなく、信念と欲望を基準として用いて善悪判断を行うものである。》
(2).模倣の法則と発明概念。
《信念と欲望は、ある個人の発明によってのみ、新たに生じる。そして、信念と欲望が伝達されることを、タルドは模倣として把握する。すなわち、ある発明者において生じた信念と欲望が、個人のあいだで、模倣を通じて伝播していく。》《信念と欲望の伝播には法則性があり、「流れ」があることを担保しているのが、「模倣の法則」である。》
(3).間-精神作用
《模倣を通じて伝播する信念と欲望の流れを、タルドは後に、間-精神作用と呼ぶようになる。》
《間-精神作用には、複数の間-精神作用同士が出会った結果に応じて生じる三つの様相があると考察される。つまり、(一)複数の作用のどちらかが受容され拡大してゆく「伝播」、(二)複数の作用が衝突し対立する「論理的対決」、(三)複数の作用に「幸福な交雑」が起こり新たな発明が生じる「論理的結合」である。》
(4).社会法則。
タルドの「社会論理学」における伝播、論理的対立、論理的結合という三つの区分》は、《社会の変化を記述するさいに用いている区分、反復、対立、適応に対応している》。《この、反復、対立、適応の三つが、社会の変化を記述するための「社会法則」である。》
ダーウィニズムにおいては、変異によって生じるのは、生物の新たな種であろう。タルドの「社会法則」においては、適応によって生じるのは、物理界、生物界、社会界における「調和」であるといわれる。反復するものも調和であるとされる。》
●反復もまた調和であるとされるが、ここでは主に、調和とは幸福な交雑としての「発明」によって実現されるもののことであり、そして、発明は「個人」という場においてのみ起こる、ということになる。この感じはラトゥールが記述する、空気ポンプ(という媒介)の創造が真空という事実を作り出し、それが、実験キットや実験者コミュニティ(のネットワーク)の拡大によって安定化(≒普遍化)するという過程とそっくりだと思う。
対立を解消して調和をつくりだすのは新たなものの「発明」であり、それはあくまで複数の間-精神作用の交雑によって(ネットワークによって)可能なのだが、しかしその交雑=発明が実際に起こるのは(発明という出来事に「場」を与えるのは)、あくまで複数の流れの結節点である「個人」なのだ、と。
●もう少し、引用、メモ。タルドの『経済心理学』について。
タルドによれは、「富」は、単に物質的なモノやサービスというだけでなく、そのモノやサービスが欲せられ、欲望を充足すると信じられていなければならない。つまり、「富」も主観的なものなしには理解できないのである。また、タルドは、政治経済学による生産、流通、分配、消費という区分を受け入れず、それらをすべて経済的反復として一つにまとめなおすなど、既存の経済学の理論的前提を徹底的に問い直す。》
タルドは、発明に経済的な適応の源泉を見出す。発明によって、個人の脳内に調和に関する発想が生じなければ、経済における調和も実現しないと考えていたからである。新しい発明は、それまでの問題の解決であり、新たな調和である。しかし同時に、この発明された新たな調和は古い発明の破壊をもたらし、古い発明の再生産によって暮らしていた人びとの生活を破壊する。この発明による不可避的な進歩と破壊を、どのようにして調停するかは、タルド経済心理学において重要な課題であった。》
●問題の解決は「原理的」になされるのではなく、今ここにある雑多さの中から、その交雑として見いだされるという点もまた、ラトゥールと共通している。しかしこれだけだと、「発明」と、資本主義が強いる「絶えざるイノベーション」とどこが違うのか分からなくなる。だが実は、資本主義は、労働力ではなく、この「発明の力能」こそを搾取するのだ、と。ここで、(進化、競争、乗り越え等々ではなく)ラトゥールの「減速、緩和、制御」にも近い、「調和」というニュアンスが意味をもつ。
《ラッツァラートによれば、現在の資本主義によって捕獲される人間の力は、労働力よりも「発明の力能」である。このような観点から、タルドの思想を、新たな資本主義への批判の道具箱として利用できるとラッツァラートは考えている。労働は再生産であり、発明こそが真の生産であるといったタルドの区分、そしてこの意味で、労働ではなく余暇こそが生産的なのだというタルドの主張を、ラッツァラートは高く評価する。》
●まあ、まだここまでだと何とも言えないけど、ただ、「調和」という言葉から即座に欺瞞の匂いを感じとるのはモダン-ポストモダンの悪い癖だとは思う。