●祖母はあと二年生きれば百歳になる。しかし、一年半くらい前に倒れてからずっと入院している。左半身が麻痺して動かないことと、記憶がかなり混濁しているからだ。しかしそれ以外はきわめて元気であり、顔色や肌艶の良さは驚くほどだ。病院は実家から近くにあり、既に退職している父は毎日のように通っているようだし、母も洗濯物や着替えをもって頻繁に通っている。孫たちも、時間があれば面会に行く。
記憶の混濁はその時の調子によってかなり変動がある。少し前に弟が面会に行った時は、弟のことも、弟夫婦に子供(ひ孫)が生まれたことも正確に把握しているようで、話も普通にかみ合っていたそうだ。昨日、両親とともにぼくと妹が訪れた時は、妹のことはなんとか分かったようだけど、ぼくのことはよく分かっていないようだった。長男の長男だという説明に、一応は納得したようだが、半信半疑という感じで、その納得にはどこか実感が伴っていないようだった。弟のことも、昨日は分からなくなっていたみたいだった。
病院は山の上にある。車いすで病室から出て、窓が横にひろくひろがって辺りが見渡せる談話室に移動する。そこで話している時、祖母がぼくの顔を見て、突然、何かを思い出したというか、何か意外なものを見出して驚くような、高揚したというか、華やいだ表情を浮かべた。そして、ぼくに向かって、祖父との思い出を語り始めた。面会が終わって帰るまで、ほぼずっと「おとうさんは…」という言い方で祖父について話しつづけていた。
祖母のする祖父の話は、いくつかの記憶が混じり合っていたりして必ずしも正確なものではないのだが、祖母のなかで再生され語り直されたその記憶の感触によって、その場にいた者たちが改めて祖父の存在を思い起こす風だった。
帰り道で母が、入院してから今まで、おじいちゃんの話をしたことはなかったのに、と言い、(孫のなかで一番「おじいちゃん子」だったので)トシヒロの顔を見ておじいちゃんを思い出したのかねえ、と言った。お盆だからじゃない、とぼくは言い、でも、おばあちゃんは、今がお盆だと分かってないから、と母。ぼくが言いたかったのはそういうことではないのだが、上手く通じるか分からなない、というか、口にしちゃうと何かわざとらしい気がしてそれ以上は何も言わなかった。
「お盆だから」というのは、「そこ」に祖父が「いた」からじゃないか、ということなのだが。祖母のあの表情の変化を見たので、そういう風に考えたくなる。
●でもやっぱ、ちょっと違うか。この話は昨日も書いたのだが、言いたいこととずれてしまっているようで一度消して、今日改めて書き直したのだが、まだ違うみたいだ。なんというか、「心霊話」や「ちょっといい話」をしたいのではない。
日々、記憶の状態が変動して安定しない祖母が、昨日に限って、ここ一年くらいは思い出さなかった(思い出したかもしれないが人に語りはしなかった)祖父のことを突然人に話しはじめたというその事実それ自体が、昨日「そこ」に祖父が「いた」ということと、実は同じことなのではないか、ということを言いたいのだが、この感じをうまく言うのはとても難しい。