●好き/嫌いというのは、少なからず「わたし」を表現するものとなる。○○が好きなわたし、××が嫌いなわたし、という時、○○や××が、「わたし」にかわって「わたし」を(他者に対しても、わたしに対しても)表現し、指示し、意味する、代替物として機能する。それがある程度安定していることによって、わたしも安定する。ラトゥールは、「私」と「私の所有物」は、信念と渇望とを共有する、と書く。
一方、驚く、きもちいい、きもちわるい、ふと目に留まる、ふと気づく、何か気になる、そわそわする、違和感がある、気のせい?等々は、未だ「わたし」になっていないが、「わたし」に向かってきて、「わたし」の一端に触れつつ、「わたし」から零れ落ちる何かであり、今後、わたしの一部となるかもしれないが、そのまま遠ざかるかもしれない何かだ。それは、「わたし」に触れたのだから、わたしと縁遠いものではないはずだが、しかしまだ不確実で、意味として把捉できず、わたしはそれをどこにも位置づけることが出来ない。意味が再帰するものであるとすれば、それは未だ意味には成り切らない半-意味(半-回帰)であり、半-偶発(半-一回性)であるに留まり、そうである限り具体的な感触を刻む。
だからまだ、それは「わたし」にとらわれていないし、わたしもまた、まだ「それ」にはとらわれていない。
●宇都宮まで行った。栃木県立美術館へ。アパートから片道しっかり三時間。行きは新宿から湘南新宿ライン、帰りは武蔵浦和から武蔵野線。展覧会を観終わってから、木陰のベンチでコンビニで買ったおにぎりを食べて、餃子のひとつも食べずに帰った。