●「現代思想」ニーチェ特集の郡司ペギオ幸夫のテキストがすごい(「不動点としての永遠回帰・内在平面としての永遠回帰」)。郡司ペギオ幸夫のテキストとしてはわりと分かり易い方で、一回読んだだけでだいたい何を言っているのかは分かった(気にはなれた)。出てくる数理的なモデルもシンプルなものなので、数学に弱いぼくでもついてゆけた。しかし、シンプルなモデルをいくつか組み合わせただけで、こんなにすごいことが言えるのか、と驚くというか、すかんと何かが突き抜けた感じにさせてくれるものがある。使われているモデルは抽象的なものだけど、このテキストが言っているのは、「超人って普通に成れちゃうものだから、なっちゃおうよ」ということだとも言えて、とても実践的なテキストであるようにも感じた。
≪脱構築された永遠回帰を、自然科学、数理科学の文脈で展開する。それこそが、現代においてなされるべきことだ。生成=存在は、絶えず意味のないものとして退けられ、生成の哲学は、詩的営為とみなされる。脱構築という概念自体が、言葉としては存在するものの、未整理、未消化で、いまだ肯定的意味をもつとは言い難い。(…)こうして、数多の哲学は分析哲学化し、自然科学など他の知的営為が、生成=存在に走り、徒労に終わって時間を浪費しないよう、目を光らせる。このとき哲学は、実在する双対図式の番人となる。これこそがニーチェの糾弾した、停止した世界だったはずだ。≫
≪生成こそがすなわち存在であるという存在論の道具は、脱構築しかない。しかしその具体的モデルは殆どない。(…)ニーチェの唱える超人概念は、語感から受けとられる超越性はどこにもなく、むしろ多元的視点を持った脱構築の優れたモデルである。ニーチェは、ポスト・ドゥルーズの新たな展開において、強力なカンフル剤となるものである。≫
●脱構築というと自動的にデリダを思い浮かべるけど、ここで言われていることはほぼデリダとは関係ないように思う。
以下に引用するのは、清水高志さんがちょっと前にツイッタ―で書いていた現代の哲学の三つの流れについてのざっくりしたまとめ(気になったのでコピーしていた)。
≪非常にざっくりした話で申し訳ないが、二十世紀以降の哲学には言語論やテキスト論に転回していく流れと、そうでなく主客の問題を考える流れ、構造主義の三つがあって、最初のものは現象学や分析哲学と親和性が高く、第二のものはプラグマティズムやベルクソンと親和性があった。≫
≪構造主義が哲学を広く他領域に結びつけたあと、ポスト構造主義はそれを第一の傾向から回収しようとした。現在また第二の主客問題を考えつつ、あまり言語論にならない流れが、立場を改めつつ勃興しつつあり、それが思弁的転回という形態をとりつつある。≫
≪ラトゥールもそうした傾向の一つである。構造主義がそこにうまく回収されるかどうかは、分からない。しかし鍵となるのは、文化人類学の動向だろう。≫
≪第二の潮流には、ドゥルーズもややまたがっていて、メイヤスーも当然そこから出てくる。またこの流れでは、日本もかなりオリジナルを生んでいて、それが西田幾多郎だ。このあたりも、かえって現在の潮流と親和性が高いといえるだろう。≫
ポスト構造主義というと、ここで言われているように、構造主義を≪言語論やテキスト論に転回していく≫方向に回収しようとする第一の傾向に属する流れのことで、「脱構築」もそのなかにあるものだと言えると思う。でも、郡司ペギオ幸夫の言う「脱構築」は全然そうではなく(独自のモデルを自分でどんどんつくってがんがん展開させる郡司ペギオ幸夫が言語論やテキスト論ではないのは当然のことだけど)、むしろ第二の流れの延長線上にあるものだと思う。つまりここで、ドゥルーズ、ラトゥール、文化人類学、メイヤスー、西田幾多郎と名前が挙げられているラインに繋がっているように思われる。このような流れを≪自然科学、数理科学の文脈で展開する≫というようなこと。逆から言えば、哲学のこの第二の潮流は、「哲学」にとどまらず、郡司ペギオが≪永遠回帰を、自然科学、数理科学の文脈で展開する≫と言っているような試みとも接続し得るようにみえるからこそ、今、面白そうだと思えるということでもあると思う。
●郡司ペギオ幸夫のテキストで超人=内在平面と呼ばれているものは、ラトゥールにおいては結節点と呼ばれていたり、メイヤスーの「現代思想」に載ったテキストでは波と呼ばれているものに近いのではないかと感じた。あと、不動点が内在平面へと逸脱してゆく感じは、カオス理論の、二つの目玉を持つローレンツ・アトラクターみたいなイメージをふと思い出したりもする。
≪(…)超人は、双対図式を相対化し、双対図式を道具として使う者である。この相対化において、並存する双対図式の多様性が言及され、自らが道具とする一つの双対図式に対し、個物−普遍の軸が重ねられる。この軸を通して、外部性を取り込み、双対図式を生成・維持しながら使う。それこそが、双対図式の脱構築である。このとき、双対図式内部の変換と、他の双対図式からもたらされる変換が合成され、不動点への収束が絶えず逸脱されることになる。こうして、決して不動点に逢着しない、開かれつつ閉じた運動面−内在平面が出現する。脱構築された双対図式における永遠回帰は、内在平面と理解される≫