●小説を、とりあえず最後まで書いた。五作目(厳密には六作目)。まだ、これから直すと思うけど。日記をみると、書き始めたのは去年の7月11日で、これもまた半年以上かかっていることになる。今の時点で一万四千字(原稿用紙35枚)くらい。やはり、半年で30枚というペースはかわらないのか…。
●茂木健一郎「オーバーフローと意識」。谷淳、池上高志、郡司ペギオ幸夫との議論もあり。とても面白い。
http://www.youtube.com/watch?v=o6dKZb1VTGc&feature=youtu.be
人工知能の研究をしている人の多くが、もうすぐ意識をもつAIが出来るだろうと言う感じなのに対して、生物から意識を考える茂木健一郎は、意識のハードプロブレムは、あと百年くらいは解けないんじゃないか(つまり、まだ手掛かりさえ掴めていない)と考えていて、その違いが面白い。意識の謎は解けないにしても、意識をもつ(としか思えない)AIを「つくる」ことは出来てしまう、ということなのかもしれない。何をもって「分かる」とするのかの違いなのかもしれない。あるいは、「意識」という言葉に、どのような念が込められているかの違い。
例えばカーツワイルとかは、人間の脳の機能を完全にコピーできれば、当然そこに「意識」はあるでしょうという感じなのだと思う。それに対し、郡司ペギオは、最も単純で形式化された生命の原基のようなモデルを(例えば、セルオートマトンという形で)考えるという方向で、行き方は反対方向なのだけど、どちらにしても、もうかなりのところまで分かってきてるんじゃないの、というニュアンスを感じる。そのような流れに対して、茂木健一郎は「意識」という言葉にもう少し違う(特別な)意味を込めているのかもしれないという気がした。