●「ユリイカ」に載っている西川アサキの「四季」シリーズについてのテキストは無茶苦茶難しいけど面白い(「超越者としての真賀田四季」と「僕=人類」の位置)。これはある意味で郡司ペギオ幸夫批判になってもいて、つまり郡司型の中枢モデル(意識=時間の起源に関するモデル)では、心身問題やクオリア問題が扱えない、というか、それが「存在しない」ことになってしまう、と。だから、郡司モデルを使って、心身問題を構成できるようにそれを発展・展開させてみるとどうなるのか、ということが、おそらく試みられている。で、その結果としてすごいややこしいことになる。
そもそも、意識=時間の起源に関する郡司モデルは圏論を使ってつくられているので、最低限の粗くて大雑把な話の展開を理解する以上には、その記述を追うことからしてぼくには不可能なのだけど(つまり、議論の前提へ理解があやふやなので、その後の展開への理解もけっこうあやしいのだけど、読み取れた限りのことをメモとして書いておく。)。
理解できる範囲でおおざっぱに書けば、郡司モデルの意識=時間の起源の話は、内部観測者のなかから外部観測者が立ち上がってゆく過程のモデルで、階層性を破る視点の二重化のメカニズムが記述される、ということだろう。
そのプロセスは、(1)「文法」と「言語」、「力学」と「空間」のような、「グローバルな規則」とそこから導かれる「可能な全生成物」が対になっているシステムを考える。(2)その「グローバルな規則」を、ある特定の状態に拘束されるローカルな規則に変えてしまう仮モデルをつくる。要するにこれは、世界(可能な全生成物)を限定された視点(ローカルな規則)からしかみられない内部観測者のモデルだろう。(3)「(2)のモデルを具体的に動くプログラムとして書き下ろすプロセス」そのものをモデル化する。これが、システム(世界)、およびそれを書くプログラマ(内部観測者)に対する「超越者(外部観測者)」のモデルとなる。(4)、(3)の超越者と(2)の内部観測仮モデルが一致するように、仮モデルの方を定義し直す。もしこの操作が可能であるのならば、(2)の内部観測者のなかから(3)の超越者(外部観測者)が出現することも可能と言える。外部観測者の起源を内部観測者に置くことが(権利としては)可能になる。
これは、システム内にある同等なエージェントたちのなかから、「システム全体の状態」を表現するメタ・エージェントと言うべき中枢が自然発生する西川モデルの中枢と重なる(とはいえ、西川モデルではシミュレーションによって実際に中枢を発生させている)。しかし、中枢はそれだけだとコンピュータのOSのような「機能」であって、クオリアや心身問題をともなわない、とする。
●このテキストでは、「心身問題的状況」が、下記のようにモデル化されている。
《ディスプレイDの映像を観測装置D1=D2という分配器を通して脳1と脳2が共有する。一方、脳2は、同時に脳1の神経活動も数値的画像的に眺めている。ここで脳2が、自分も観ている「この映像体験」が、なぜ「この数値的活動」から生じるのか?と問う時、素朴な意味での心身問題が生じる。》
このモデルは、脳1と脳2が「同じ一つの脳」だったとしても成り立つ。要するに、「このクオリア」と「この脳の活動」とが「脳」の観測によって二重化され、重ね合されるとき、心身問題が生じる。ここで観測者である「脳」は中枢であり、内部観測者のなかから立ち上がった外部観測者として既に二重化されている。つまり、クオリアや心身問題が扱われる時(つまり、「外部観測者として心身問題を考える哲学者」というモデルを考える時)、既に二重化の結果である中枢が、自分自身の観測によってさらに二重化されるというモデル(「二×二重化」)を考える必要がある。
(ここで、「このクオリア」と「この脳の状態」とは、そもそも別の言語ゲームなのだから、あるいは別の階層にあるのだから、これを二重化して混同する心身問題は「偽の問題」なのだ、とすることも可能だ。しかしこの解決は、我々が不可避的に、素朴に心身問題に悩んでしまうということの解決になるのだろうか。中枢というものが既に階層性の破れとしてあり、われわれが素朴に階層を破ってしまう認識機能をもつのだとすれば、「なぜかナチュラルに混同してしまう」ということが問われるのではないか。)
(心身問題とは階層間の移動の問題であるので、「メタ化を嫌う人」「メタ化したがる人」の双方から嫌われる傾向があると書かれているのも面白い。)
●ここにさらに、もう一つ上の階層が重ねられる。それは、「どのわたし」もすべて「わたし」である可能性があるのに、なぜ「このわたし」だけが「わたし」なのか、という問いの形をとる(西川さんはこれを別のテキストで「なぜこれ問題」と名付けている)。この問いは、それ自体が二重化の効果である中枢の観測によってさらに二重された(心身問題を理解する)脳=わたしが、「このわたし(脳)」を含む他の複数の「わたし(脳)」を「わたしと同等のもの」と見做し、しかし「このわたし」以外は「わたしとは異なるもの」として(二重化して)観測することで生じる。つまり「二×二×二」重化によって、はじめて生じる。
そして、ヒトというのは、放っておいても、特に哲学などの教育を受けなくても、ごく素朴にこのような認識をもつようになるのではいか。要するに脳の機能によってそうなるように出来ているのではないか。このテキストでは、「二×二×二」重化された(三層に二重化された)外部観測者を、二重化された(一層に二重化された)外部観測者である「中枢」に対して、「魂」と呼んでいる。
真賀田四季という人物は森博嗣の小説のなかで絶対的な存在であり、神に近い能力をもつ。しかしそれを書くのは人間である作者である。それは結局、小説全体を制御する作者そのものの似姿が、作者によって操作された世界である(操作対象である)小説の内部に《レベルが違うが同じ構造》のものとして出現したものと言える。四季は、世界の内部にありながら、世界全体と構造的に同等であるかのように出現する超越的な存在であるが、しかしそれは、森博嗣真賀田四季とが、「他の登場人物たちの行動を先読み出来る」という思考を共有し(要するに、真賀田四季の頭のなかには、森博嗣の頭のなかと同様に、すべての登場人物の行動に対する決定権があるので、他の人物の行動を完璧に予測できる)、そして作者は他の登場人物にはそれを許していないという事に過ぎない。
(つまり、四季は小説世界の「可能な全生成物」に対する「グローバルな規則」である。)
しかし、小説世界は(様々な内的・外的要因によって)作者によって完全にはコントロールできないとしたら、作者の似姿である四季もまた完全な超越者ではない。さらに、四季もまた登場人物の一人に過ぎないので、その脳は作家森博嗣の脳とは完全に一致しているのでもない(四季は、実は文脈に左右されるローカルな規則であった)。しかしそこを無視して、あたかも、あらゆる「予測不能なローカルな潜在性」すらも包含するかのような存在の記号として四季という人物を立てる時、それは超越的な「記号」となる(内部観測者から外部観測者がたちあがる)。事実上ローカルな規則だとしても、グローバルな規則の記号として、あるいはグローバルな規則への権利としてたちあがるのが「中枢」だとすれば、四季は、森博嗣の小説世界の内部に発生した「中枢」と言える。ここまでは郡司モデルで言える、と。ではしかし、《僕》とは誰なのか、となる。
《レベルの違いを貫き、外部観測者と内部観測者であることを繰り返す僕は、結局其志雄なのか? それとも四季なのか? いや、森博嗣や西川アサキやあなたなのか? 僕の位置がもつ不確実さが、『四季』で読者を謎めいた浮遊感に誘う。つまり、僕は三レベル目の外部観測者、魂とその偶然性の表現である。》