●blanClassに、平倉圭さんの話を聞きに行った。すごく面白かった。
http://blanclass.com/japanese/schedule/20141206/
以下は、平倉さんの話とは別に、話を聞きながらぼくが勝手に考えたこと。
ピカソ(だけ)ではなく物質としての絵画面(の蓄積)が考える、という時、ピカソは主体ではなくても、少なくとも観測者ではあるのではないかという感じがぼくにはある。様々な他者や物質というアクターたちのネットワークが「考え」、そのある断面が絵画面として集約されるとして、そこですべてのアクターたちが同等ということではなく、たとえば、観測者、観測装置(媒介)、観測対象という感じの役割分担が生じるのではないか(ここはパースの解釈項・記号・対象のパクり)。この役割は固定的なものではなく、ある構えにおいて観測者だったものが、別の構えでは対象であったり媒介であったりもするという風に、役割は可変的に移動する。というか、多層的に重なっている。
絵画が考えるという時、観測者としてのピカソがいて、媒介としての絵の具やキャンバスがあり、対象としての蓄積された絵画面がある。そして、映画(「ミステリアス・ピカソ」)が考えるという時、観測者としての監督やスタッフがいて、媒介としてカメラやフィルム、照明、スタジオなどがあり、対象として「ピカソおよびピカソの絵画」がある。そして、今回のレクチャー=パフォーマンスが考えるという時、観測者としての平倉さんがいて、媒介としての、様々な先行研究、コンピュータ、加工された映像、楽譜、プリントアウトされた画像があり、対象として「映画と不可分に絡みあったピカソの絵画」がある。そしてそこに、観測者としての観客がいて、ブランクラスという媒介があり、対象としての「平倉圭のレクチャー=パフォーマンスと不可分となったピカソの絵画=映画」がある。
だけど、思考=行為は、アクターたちの「間」で起こると言えるとしても、しかしその出来事=思考を、「出来事として受け取る」観測者がいなければ、それを出来事や思考と呼ぶことができるだろうか。
そしてこの時、絵の具やカメラは、媒介や対象にはなれても、観測者になれるのだろうか。たとえば、チョウ類の「吸盤」の進化を「進化としてみる」のは人間のみであろう。人間が観測しなくても、チョウ類の吸盤の進化は(チョウ類と環境との関係によって)進行するだろうが、人間という観測者がいなければ、そもそもそれを「進化」として捉えることはないのではないか。同様に、蓄積された絵画面から「六角形」の構造(あるいは「何かしらの統合性」)を見出すのは、ピカソである必要はないが、人間である「誰か」ではあるだろう。絵画面が、様々なアクターたちのネットワーク(間)から生まれたとして、それを「絵画」として捉えるのは観測者としての人間、つまり外部(関係)に触発される内部(閉じたもの)ではないか。
思考が、内部でではなく、外にある物たちの「間」で起こるとして、その起こった何かを「出来事として捉える」内部、つまり、外部で起こった思考=出来事に触発される何ものかとしての、最低限の「内部」が、思考には必要なのではないか。この時、観測者たりえるのはなにかしらの内部を持った存在、つまり(人間ではないとしても)生物ということになるのではないだろうか。様々なアクターのなかで生物(観測者)が特権的であるとすれば、その行為の主体性(能動性)にあるとは言わないとしても、投射された外部としての「閉じられた内部(一人称)」をもつということだ、とは言えるのではないだろうか。
(「心の理論」の誤信念課題によると、人は四歳くらいになると「わたしのこころ」と「あなたのこころ」がつながっていないことを自然に理解するという。一人称の成立。)
観測者は、思考の主体ではないとしても、思考の収束面ではあるのではないか(ピカソは「絵画を発見する」と言ったというが、まさに観測者は思考を発見するモノであり、思考=出来事は観測者によって発見されることを待っているのではないか)。外部=関係において展開された思考は、観測者の元に収束して内部へといったん閉じられ、しかし、外部を内化したその観測者自身(の行動)が、対象や媒介へと役割を移行することを通じて、再び外部=関係へと開かれる。思考の収束面としての観察者=内部がなければ、世界のなかに(物たちの間に)発生する「思考」はただ拡散するだけになってしまう。開かれたものが閉じられ、閉じられたものが開かれる、外が内へと繰り込まれて収束し、内が外へと拡散する。この、繰り返される「反転」をつくりだすために、思考は観測者という装置を必要とするのではないか。だから、思考を「開く」ことと同じくらい「閉じる」ことは重要ではないかと思う。
(リペットの有名な実験で、意識が行為に遅れて発生するとしても、意識はその行為を後付け的に強化する役割があるのかもしれない。意識によって脳全体、あるいは身体全体の行為の統合の文脈が強化され、あるいは圧縮され、あるいは文脈が発見されている、のかもしれない。意識は観測者として「脳」の思考を「発見している」、のかもしれない。)