●『来るべき内部観測』(松野孝一郎)、第一章をなんとか大筋では理解できたように思われたので第二章にすすんだのだけど、これがまた輪をかけて難しい。この本の文章はとても簡潔に描かれているのだけど、それがまたかえって難しい。薄い新書だからさらっと読めると思ったら大間違い。これはこういう本だと思って覚悟してゆっくり進むしかないようだ。
序章に戻って、重要だと思われるところをいくつかメモとして引用する。
《一人称行為体の出現そのものは、それを対象化できるとする三人称記述を前提としていない。その出現は、経験にのみ由来する。三人称の記述で生命の起源に到達しようとする試みは、見かけ上はまともな問いかけでありながら、三人称の記述を行使する生物個体としてのわれわれを前提としているため、その前提のうちに期限が先取りされてしまうことになる。三人称記述にあたっては、その対象を恒存するものと化してしまうため、起源への問いかけそのものが消失してしまう。起源は事前と事後を峻別する歴史的な事件であるため、それを三人称現在形の定立で参照することはできないからである。》
《観測という行為が特異なのは、それが互いに異質な事前と事後の間をまたぎ、かつその二つを今において連結できることによる。持続する一人称行為体に備えつけられているとされる観測能の確証は、三人称記述に基づく分析命題による証明によってではなく、あくまでも経験によって獲得されるはずの対象として位置づけられているにすぎない。》
《地球上のバイオマスの大部分を占める原核生物であるバクテリアは、まぎれもなく一人称行為体であり、われわれによるその三人称記述にいっさい頓着することなく、これまで存続・繁栄してきた。経験は、三人称を介することなく自立できる一人称行為体の事例を提供する。にもかかわらず、その現象を経験事実として注目するかぎり、それを対象化する三人称の記述がわれわれには避けられない。求められているのは、行為体の証を対象のちにとどめておく三人称現在形の記述である。》
《内部観測は、関心を寄せる対象が恒存することを事前に要請まではしていない。このことによって、二正面からの攻撃をかわそうとする。要請するのは、あくまでも事後において判明する持続にとどめおかれる。内部観測を根底で支えるのが、この持続である。内部観測のありようは、事後に判明する事態にのみ限定する、という抽象を受け入れることによって三人称化される。それによって、抽象化された内部観測は、そこで許容される三人称記述を介して観念世界に接続される。加えて、それは事後に経験的に確認される持続を介して、事前に恒存することまでは要請されていなかった物質世界に持続する具体性を付与することを可能にする。》
《その具体性を付与された典型例は、持続する今の更改から派生してくる時間に見出される。内部観測が関わり合うのは、時間からの持続ではなく、それをひっくり返した、持続からの時間である。内部観測は一人称行為体に固有な持続する今の更改の上に立つ。その持続する今の更改を三人称で参照するという抽象を課すことによって初めて、そこから時間が現れてくるという見通しが立つ。時制が持続する今と時間の間を仲介することになる。》
《内部観測を外部観測に橋渡しする経験科学者の特異さは、前もって名づけることのできない対象を経験の現場で「これ」や「それ」という指示代名詞で指示できる、と考えるところにある。指示代名詞の多用を自粛し、名づけられた対象や概念のみの操作に専念する理論家には及びえなかった内部観測を、経験科学者は手中に入れる。そのため、経験科学者は内部観測の現場を指示代名詞で指し示しながら、その指示対象の持続が判明するなら、爾後にそれに名前をつけて参照することを可能にする。名づけられた対象は、それ以後、それ自体で自立することができるようになって、外部化される。その外部化された対象は、外部観測の対象になることができる。内部観測に由来する観察命題が持続するときにかぎって、その観察命題は外部観測の対象ともなる。》