●お知らせ。10月31日の、東京新聞夕刊に、ギャラリーαMでやっている小林耕平「透・明・人・間」のレビューが掲載されます。
●井土ヶ谷のblanClassで、「えをかくこと#6 道具について考える」。
これはすごく面白かった。いいイベントだったのではないかと思う。絵を描く人と、別に絵など描かない人とが、大きなテーブルのまわりに集まって、絵を描く人たちそれぞれが使っている道具について、それをどう使っているかについての、具体的な、ディープでマニアックな話をする。前に出で発表するみたいな形ではないし、テーブルを囲んでいるので、話している人への質問やツッコミがその都度、自然に入る。
道具が目の前にあるので、聞き手の関心もそちらにあるから、話し手もそれほど緊張せずに済むし、具体的な使用法についての話なので(実際に目の前で手を動かしているので)、質問やツッコミもいれやすい。人と人とが直接対面して言葉を交わすのではなく、間に道具があり、それが媒介することで、話が円滑にまわる。
これが、絵を描く人たちだけの集まりなら、マニアックなところばかりに話が行きがちだけど、描かない人も混じっているので、そこに風通しの良さというか、距離のようなものが生まれる。また、絵を描かない人だけに向かっていると、どうしても「説明する」感じになりがちだけど、実際に絵を描いている人たちがいるのだから、そこには一定の緊張というか、誤魔化せないガチな感じもある。とはいえ、全体としてはゆるくて鷹揚な雰囲気ですすんでく。
道具というのは、作品をつくる人にとって、フェティシズムの対象でありつつ、その「フェティシズム」に対してどう対処するかという「批評」の実践の、それぞれの作家にとっての具体的な方法でもある。フェティシズムによって、人と世界(モノ)とは強く結びつくが、しかしそれだけだと関係は固定的であり、退屈なものとなる。フェティシズムを燃料としつつ、道具、その使用法、制作の過程などを媒介とすることで、フェティシズムの内実が分析的に把握し直されるし、媒介による介在的な作用によって、そこから別の出来事、別の関係へと伸びてゆく経路が開かれる可能性がうまれる。
一見、ほとんど無意味に思え、「性癖」としかみえないような道具や制作過程へディープなこだわりは、しかしその「性癖」を徹底することによって(性癖を実現するために必要な様々な道具やモノや過程や他人や社会との関係という媒介によって)、性癖の実現がそのまま性癖の批評(検討であり再編成)となる。そのような、性癖の徹底の過程が性癖の批評となるような性癖(=作品)が、他者の性癖に働きかけ、そこに何かしらの揺さぶりをかけ、その他者にとっての性癖の再編成や再検討を促すとすれば、その作品はよい作品なのではないか。
自分が作品をどのようにしてつくっているのかは知っていても、他の人がどうしているのかはよく知らない。その人の作品は知っているとしても、なかなか、制作の具体的な過程まで知ることはない。その一端を知るだけで、自分の行為や習慣に対する「揺さぶり」となる。単純な話、どのような筆を使っていて、それをどう持って、どう動かすのか、を知るだけで、「えっ、そうなのか」という新鮮な驚きがあり、自分自身の習慣が揺さぶりにかけられる感じがあった。
自分が引くのとは違う線、自分が選択するのとは違う色彩の背後にあるのは、たんに考え方や趣味、感覚の違いではなく、道具、その使用法、制作過程、習慣、身体、その人の来歴というように、いくつもの層が重なった分厚い「違い」があるのだし、また、自分も、その層の一部を変えてみることで、違った結果へと変質し得るのだということを実感できたという意味で、とても刺激的だった。
●末永史尚さんによるレポート
http://kachifu.hatenablog.com/entry/2014/10/30/233000