●『輪るピングドラム』、第八話。以下、ネタバレしています。
●苹果から離れる二人の男、多蕗と父。この双方に対応する苹果の二つの妄想形。動物-ぬいぐるみ系と劇場-ミュージカル系。前者においては擬人化、デフォルメされ単純化された形態が、後者においては紙のように厚みをなくして平板化した人物が、その妄想発動の「しるし」となる。前者は家族関係の妄想であり敵は「うつぼ」で、後者は多蕗(恋愛)関係の妄想であり敵は姫(時籠)であった(例外的に時籠-シャチという形態などもあったが)。
今回、後者に、平板化された人物という形式はそのままで、劇場から映画(シネマスコープサイズ)への変形が起こる(そして動物系もそこに混じり込む)。これは、劇場-王子-姫という妄想体系において敗北が決定的になった苹果による巻き返し策であり、つまりこの妄想の形式の変化が、苹果の現実上の行動の変化(エスカレート)を導くことになる。
●苹果は消失する媒介者であり、自らの存在を消すことで関係-過去を回復しようとしている。床下(妄想)と床上(現実)の短絡的接合に失敗した苹果は、自らを「ももか」と同一化するだけでなく、敵である時籠とさえ同一化しようとする(マニキュア、金髪…)。もはや、ももか-苹果というペアが、時籠という敵から多蕗を奪い返そうという戦略は放棄され、時籠へと偽装したももか-苹果によって、多蕗の精液をかすめ取るという戦略に変更される。ももか-苹果と時籠との、(イメージ上の)強引な接合が試みられる。
つまりここでは、ももかの代理としての苹果が多蕗と関係することで、ももか-多蕗という関係-過去が回復されるのではなく、ももかの存在さえ消失させ、本来ならばももか-多蕗の関係の結果として存在するはずだった「子供」のみが欲せられることになる(プロジェクトM)。ももか-多蕗の関係の代理として、苹果-多蕗の関係が求められるのではなく(つまり多蕗本人が求められるのではなく)、本来生まれるべきであった(と苹果が思い込んでいる)、「ももか-多蕗の子供」の代理として、苹果-多蕗の「子供」が創造されればよいということになる。関係-過程はすっとばされて結果だけが求められる。こうなると苹果は、ももかの代理人ですらなく、ももか-多蕗の子供の代理をつくりだすためのたんなる媒介(手段)となる。だから敵への擬態もいとわない。苹果の存在は完全に消えてしまう。
苹果の行動は、関係の結節点としての項の固有性を消してまでも、関係-過去を維持(というか、回復)しようとする方向性(形式主義的傾向)をもっているが、それは逆に言えば、自己を抹消したいという強い衝動によって導かれているようにも思われる。
睡眠薬で眠らせた多蕗と強引に関係しようとする苹果を止めようとする(こちらも睡眠薬で朦朧とした)晶馬は、苹果に飛び掛かるが、多蕗のからだから苹果を引き離すのではなく、(結果として) 苹果から金髪のウィッグのみを引き離すことになる。これはつまり、二人が関係してしまうことを止めるというよりも、苹果が時籠(の模造-代理)として多蕗と関係すること(自らを完全に媒介(手段)としてしまうこと)こそを止めようとしたということではないか。自らを消滅する媒介者として抹消してしまいたいという衝動によって行動するかのようにみえる苹果(しかし実際はそのことが苹果というキャラを際立たせているのだが)に対して、晶馬は、彼女のそのような行動を押しとどめ、苹果を彼女自身として存在させたいと思っているかのようだ。
(だが、ここで多蕗はパンツを穿いていた…)
●しかし衝撃のラストでは、今度は晶馬が苹果の身代わり(代理)となって車と衝突する(晶馬が苹果の命を救うのは二度目であるが、今回は苹果を助けるために自らの身体を差し出す)。これまで、ももかの身代わりとして、ももかの日記に忠実であろうと行動していた苹果がおそらくここではじめて、誰かに身代わりになってもらう。自らを抹消させるために行動してきたかのような彼女が、その抹消されるべきもの(私)が他人によって代理されるという経験を、どのように受け止めることになるのだろうか。代理する者として抹消されるべきものが、別の存在によって代理される。
ここで、晶馬が苹果の身代わりになるのは、陽毬のためなのか、それとも苹果のためなのか…。苹果と行動を共にする晶馬の行為は、もはや陽毬のためという目的を逸脱している。あるいは「〜のため」という目的設定を越えている。行動の具体性は、常に目的を逸脱してゆく。ここで晶馬は、苹果とはまったく逆向きから、自らの存在を抹消して他者へと明け渡しているかのようだ。
おそらくこの作品では、冠葉も晶馬も苹果も、それぞれ異なる形で、自己を抹消し他者を代理する存在なのだろう。
●高倉家の三人にとっても、苹果にとっても、関係-過去を現在へと繋ぎ留めるための特異点として、水族館がある。水族館が存続していることで、関係-過去(の幻影)がかろうじて作動している。だから水族館は、世界のはじまりであり、また、世界がそこへと返ってゆくべき収束点ともなっている。
●複数の線が複雑に絡み合いつつ同時進行するこの作品だが、実際には、二話以降は苹果の並外れた行動力(と妄想力)を推進力としてここまで引っ張られてきたと言ってよいだろう。しかしおそらく、それはここまでになるのではないか。今後、この作品のリズムや調子や構造などに、どのような変化が起きるのだろうか。
●運命の日記が二つに引き裂かれた。1が2に分離した。これは、苹果とももかを繋ぐ絆の切断であり、それによって晶馬が交通事故に遭ったのだから、冠葉と晶馬の分離ということにもなるのかもしれない。これも、今後どうなってしまうのか。
●この作品の絵は、線がシンプルだし、細かく描きこんでいるという感じではない。演出も、絵が頻繁に動いているという感じでもなく、けっこう止まってるカットも多く、作画枚数が飛びぬけて多いと言う感じでもない(止まっている感じのカットが長くて、それに対して動きがささっと早くて短いから、ええっと思っている間に事が起こって、終わってしまう)。つまり、解像度を上げてゆくという方向とは全然違う形で、作品を複雑化し、動きを活き活きとさせている。
エピソードにしても、一つ一つを取り出してみるとけっこう当たり前の感じだったりするのだが、組み合わせや方向転換(そしてそのタイミング)が予想外なので、動きが読めないようになっている。つまり、要素よりも「動き」が面白い。