●『輪るピングドラム』15話。桃果登場。そして彼女は世界の乗り換え(『シュタンインズゲート』で言えば世界線の移動)が可能である人物であることが明かされる(これは「東京スカイメトロ」の衝撃とつながるものだ)。一つ矛盾があるとすれば、時籠だけが何故、世界線の変更後もそれ以前の記憶を保持しているのか、という点があるけど。桃果が燃えるイメージはタルコフスキーの『ノスタルジア』が想起された。
●今回は演出が特に冴えていたように思う。幾原邦彦と共同絵コンテでさらに演出を担当している柴田勝紀という人の名前を憶えておきたい。
●時籠が日記を欲する理由と、冠葉たちや夏芽という「ペンギン系」がそれを欲する理由はやや異なっているようだ。冠葉たちや夏芽にとっては、日記の取得の目的は死を運命づけられている人物の延命であり、それはプリンセス−サネトシのペア(ペンギン帽やクスリ)によってとりあえずは仮に実現されている。だが時籠においては、16年前に既に亡くなっている桃果を復活させることであり、それはより大きな世界の改変を、つまりこの世界を16年前に遡ってそこからまるごとやり直すことを意味している。
●そしてもう一つ、16年前の「事件」そのものが桃果による何かしらの世界の改変の結果であり、その「代償」として起きたという可能性を、今回の展開は示している。時籠の父をこの世界から消失させるために、桃果は全身を炎に包まれるという「代償」を支払わなければならなかった。そして、さらに行われたと思われるもう一つの「世界の乗り換え」には、桃果一人だけでなく、多くの人を巻き込んでしまった「事件」が「代償」として支払われなければならなかった、かもしれないのだ。
ここで行われた「世界の乗り換え」が何に関するものであったのかという謎が提出されるとともに(ここに多蕗が関わっているんじゃないかという気もするが、その程度の予想は簡単にひっくり返される気もする)、「事件」の本当の原因が桃果であったのではないかという可能性が生じる。実は加害者は、冠葉たちの父母ではなく、「世界の乗り換え」によって事件を発生させ、その結果、冠葉たちの父母が加害者であるかのように世界を書き換えてしまった桃果こそが、すべての原因であったかもしれないのだ。桃果こそが(意図せざる)加害者であり、高倉家こそが被害者であるかもしれない。ここでまた改めてもう一度、「ピングドラム」という作品世界がひっくりかえるのだ。
(桃果の霊体であるかのような)プリンセス・オブ・クリスタルが、サネトシのクスリによってではなく、あくまで「ピングドラム」によって陽毬の命が救われる必要があると言っているのは、プリンセスもまた、16年前に遡って運命が書き換えられなければならない(いや、もとに戻されなければならない)と考えているからではないだろうか。たんに陽毬の命が回復されるだけでなく、冠葉や晶馬や父母も含めた家族全員が、失われた運命を取り返す必要がある、と。
だが、それはそのまま、16年前に桃果が書き換えようとした「何か」を復活させることになるはずだろう。高倉家の失われた運命と、その時に行われた「何か」の改変は両立できない。どちらかをとれば、どちらかが失われる。ここにもまた「生存戦略」が…。
●それにしても、「ピングドラム」の世界では、ことごとく「親の世代」が問題の根本を作り出している。これは『隻眼の少女』とも共通する問題だと思う。しかしこれを、たんに家族の問題とするのではなく、先行する世代との関係、つまり、既にそのようなものとして編み上げられている世界のなかへ、新たな世代が生まれてくるという、まさに(予め刻まれているものの、選択不可能な、強制−暴力としてある)継承の問題だとみる必要があると思う。どんな世代でも、それより先行する世代が作り上げた世界のなかに、選択不可能な形で生まれてくる。
●だが、ここからはヤマカンに過ぎないが、「ピングドラム」で真に問題となっているのは、それとは異なる意味での継承であるように思われる。おそらくそれは「ウテナ」とも繋がっている。「ウテナ」は、先行する世代に刻まれた「王子様」というあり様を、それを刻んだ当の王子様を越える形で、あらためて自らの意思によってそれを更新しつつ継承しようとする話ではなかっただろうか。刻まれたトラウマはウテナを規定するが、そのトラウマがあることによって、継承=更新であるような継承が可能になる。トラウマに規定されることで、自己を消してトラウマと同一化しようとする(女性性を捨てて王子様になろうとする)が、その行為の徹底を通じて自分自身を発見する(自分自身に到達する)ウテナは、そこで発見された自分自身という地点においてあらためて、王子様であることを再び選択しようとする(それによって実際の王子様を否定し、越えてゆく形でそれを継承する)。
自己否定に徹することを通じて、その結果として自己としか言いようのないある固有性に到達し、そこから改めて、自分を縛ると同時にそこまで導いてきた「何か」を、もう一つ高い次元で継承する。これは、既に刻まれているものの(強制的な、あるいは盲目的な従属としての)継承とは違うし、そこからの解放(継承の放棄、自由)とも異なることだろう。このような、王子様−ウテナの継承は、「ピングドラム」においても、桃果−苹果として反復されることになるのではないだろうか。
では、桃果−苹果という軸において何が継承されるのだろうか。炎に包まれる桃果と(オープニングでの)同じく炎につつまれる 苹果のイメージと、宮沢賢治的な主題系(蠍の火)をあわせて考えるならば、それはおそらく純粋な自己犠牲というようなものになるのではないだろうか。苹果においては、まず、日記に書かれた内容の盲目的な従属-模倣という桃果との同一化の過程があり、その過程のなかで逆説的に自己を発見するという段階に達し、その後、他者の欲望を媒介とした桃果との同一化もあり、それらすべてを経た上で、他ならぬ苹果となった苹果が、あらためて桃果をより高い次元で継承し反復する、ということがあるのではないだろうか。
とはいえ、今のところ「ピングドラム」世界でもっとも純粋な自己犠牲に近い位置にいるのは冠葉であるように思われるが。とはいえここには、陽毬への愛という「不純な」要素が絡んでいるが(「銀河鉄道の夜」のカンパネルラは、特に愛着を抱いているわけではない、むしろ嫌な奴ですらあるザネリを助けるために、自らの命を投げ出す)。