●おそらく、「作品」を読むときに、その最も浅い層にあるのは意味だろう。そこからもう一層深く入り込むと、意味の召喚を可能にする形式に行き当たることになり、さらに層を下れば、その形式を可能にしている構造を読むということになる。そしてさらにもう一層下に、構造を生成しているミクロな演算過程という層がある。作品には大雑把に、意味、形式、構造、演算過程という四つの層があり、作品とは、その四層を貫くなにものかだ、と、とりあえず言ってみる。
(このような四つへの層分けは、あくまで意味上のもので、定量的なものではないけど。)
(あるいは、そのさらにもう一つ深い層として「リズム」という層があるのかもしれない。)
マクロなあらわれとしての形式があり、ミクロな力としての無数の演算過程があり、その中間に両者を媒介する構造がある。この三層からなる機械状のものの表面に、(ドゥルーズ「意味の論理学」で言う、出来事が起こる場としての「表層」である)意味が貼りついている、というイメージ。
構造は、無数の演算過程の束から生成されるものであり、それらを制御する集積回路でもあり、そのようなものとして、形式をかたちづくる基礎的単位となる。
(たとえば、意味=イメージ、形式=諸感覚(の形式)、構造=脳、演算過程=ニューロンシナプスのネットワークの一つの単位、リズム=シナプスの電位変化、という比喩は可能だろう。)
(例えば演算過程の層には、作品を制作する主体に属する演算もあれば、メディウムそのものが要請する演算もあり、その作品を生産する社会や時代や場所に属する演算もあるだろう。おそらく演算過程から構造へという階層化の場において、異なる領域間の横断―協働が起こる。)
(おそらく作品では、最も深い演算過程の層と、最も浅い意味の層とで、他の領域との横断性が生じる。しかし、それが形式や構造に影響するのは演算過程での横断性であり、意味における横断性は、表層での区分け――つまり意味自身――を変化させるにとどまると思われる。それは、意味の層においてのみ、二重の横断性が重ねられるように作用する、ということでもあろう。)
(通常、われわれの目の前にあらわれている作品は、意味-形式の二層であり、メディア、メディウムと呼ばれるものが形式-構造の二層であり、支持体、基底材、あるいは作家、時代などと呼ばれるものは、構造-演算過程の二層だと言える。つまりそれは、どこを切っても二層をもつ階層構造――それは基本的に図・地の構造となるだろう――と、その階層性の破れが生じている。)
だから、作品を読むというとき、意味から演算過程に下ってゆき、また、演算過程から意味へと昇ってゆく、という往復(沈降と上昇)運動を何度も繰り返すということになるのではないか。浅いところから深いところへ、深いところから浅いところへ。その振れ幅の大きさが読みの深さだろう(意味だけを読むことが「浅い」のは当然だが、演算過程だけ読んでも「深い」ということにはならないと思う)。
(とはいえここで「深い」や「浅い」は階層性の表現であり、例えば浅い=軽薄というような意味ではない。)
●さらにそこには、作品を読む「わたし」という存在が不可欠である。作品生成の演算過程と、作品読解(わたし)の演算過程の間に、共振、横断、協働、すれ違い、誤解、反発、拒絶、否認、無視、無関係などが引き起こされることで、それらが構造の読解、形式の読解、意味の読解へと貫かれて昇ってゆくのだろう。
●たとえば、フォーマリズム的なメディウムスペシフィックの批評は、作品を、意味―形式―構造くらいまでの振れ幅で捉えようとしているように思われる。あるいは、ガタリの分裂分析は、意味―形式―構造―演算過程のすべての層を含んだ振れ幅がイメージされているように思われる。



●この図式はおそらく認識論的なものであり、もしこれを存在論的に記述するとしたら、逆転して、もっとも浅いところに演算過程が来て、深いところに意味があり、さらにその先の深いところに実在が来ることになるのだろう。
●このような、階層性とその破れがあるとして、その時、下の図の赤い矢印のような、階層をまたいだ相互作用も考え得るとすれば、話はもう少し複雑になる。