セザンヌのすごいと思うところの一つに、あれだけ言語化が困難なことをやっているのに、自分がやろうとしていることを常に間違えない、というところがある。「ブレない」というのは信念の問題ではなく、「やろうとしていることを見失わない(忘れない)」ということだと思う。「自分はこの感じこそを追究したいのだ」という「この感じ」を、言語なり、あるいは他の「外部記憶装置」なりで完全に保存することはできない。「初心忘れるべからず」とは言っても、その「初心のまるごと」をどこに保存しておけばいいのか。しかも、今まで(自分も含めて)誰も十全には表現できていない「この感じ」の表現を追求するのだという時の「この感じ」を、自分自身に対してどう保存できるというか。
行為への努力と没頭のなかでいつの間にか「初心」そのものが変化してしまい、気付けば消えてしまっていたということを、誰もが経験するのではないか。制作に没頭するうちに、ふと、そもそも自分は何が面白いと思って「この作品」をつくりはじめたのかということを見失っていることに気付くことがある。セザンヌの場合、ほかならぬセザンヌの作品そのものが「この感じ」を保存しているのだから、セザンヌ自身もまた、自分の作品に導かれたということはあるだろう。自分の制作に関しても、そもそもその作品をつくりはじめたきっかけとなった、最初期の段階のエスキースには「最初の直観」がある程度は保存されているはずだ。だからそこに立ち戻れば、そうか、最初にあったのは「この感じ」だったのだということを思い出す。そうなればいいのだが、そうではなく、「あれ、自分はこれの一体何を面白いと思ったのだったか……」となる場合だってある。
さらに、最初にあった「この感じ」を思い出せたとして、その「この感じ」がそれ自身で十分な力をもっているのなら、そのエスキースそのものを作品とすればよい。しかしそうではないからこそ、それを出発点として次の展開が出てくる。その展開は、ここまでくれば「自分が面白いと持ったこの感じ」を、ある程度の強さをもった表現とすることができたはずだ、と思えるようになる地点までつづく。だから、最初にあった「この感じ」から、現時点で「ここまで来た」というものの間に、いくつもの展開があり、その筋道がある。そしてその展開の間のどの地点にでも、いつも「方向を間違える」危険がある。
「手癖」というものがある。AならばB、CならばDと、入力と出力との間に意識が介在せず、自然に体がそう動いてしまう状態と言える(小脳的な並列処理)。ある技術を習得するということは、たくさんの手癖と、手癖間の関係のネットワークを自分の体の中に作ることだと言える。ある音の響きをイメージすると、意識しなくても両手の指が自然とその鍵盤を抑える形になる、という風な。あたらしい技術の習得過程においては、この「意識を介さない繋がり」に「意識的に介入」することが必要になる。意識を介さない繋がり間のフォーメーションを、意識的に矯正しようとする。この過程で、意識を介さないネットワークが混乱し、「自分の脚の動きを意識することで動けなくなってしまうムカデ」のような状態になる。少なくとも、一度はこの状態にまで達しなければ、「意識を介さない繋がりのネットワーク」にまで「意識の介入」が届かないと思われる。
この過程は、身体の運動にかかわる「手癖」だけでなく、認識にかかわる「眼癖」、思考にかかわる「考え癖」という側面も考えられる。つまり、「意識を介さない繋がり」の配線が、行動の、認識の、思考の「地」となっていると考えられる。そしてこの「地」には様々な深さの段階があると思われる。所属している集団におけるローカルルール的な作法のようなレベルの、比較的に習得、書き換えが容易で、浅い層において成立している習慣のようなもの。例えば母国語、あるいは排泄行為に関する羞恥のような、人間の行為、認識、思考にかなり深いところで作用している、書き換えが困難な、トラウマ的とも言える層。そして、人間というハードに予め仕込まれている、生得的で書き換え不能な層。例えば「自転車に乗る」というような技術は、浅い層と深い層との界面にあるようなもので、その技術レベルが高くなればなるほど、書き換え困難な深い層にまで食い込んだ「繋がりの配置」にかかわっていると思われる。あるいは、他者への恐怖・欲望、暴力への恐怖・欲望などは、深い層と生得的な層との界面で作用するものと言えるかもしれない。あるいは、母国語のあり様は深い層で作動するが、その母国語を可能にする、言語習得の条件的マトリクスのようなものは生得的な層にあると考えられるので、言語も深い層と生得的層との界面で作動しているのかもしれない。
で、何が言いたいのか。最初にあった「ある直観」を元にして、作品を一定の強さをもった表現にまで発展させようとする筋道のなかで、「方向を間違えさせようとする」危険、「何を面白いと思っていたのかを忘れさせる」危険ととても強く関係しているのが、深いところで作用している、トラウマ的で書き換え困難な「手癖」「眼癖」「考え癖」であるように思われるということ。それはそもそも「意識的な思考」の「地」になっている配線なので、意識によって捉えたり、介入したりすることが困難なものだ。
いわば、「意識を介さない繋がり(配線)」は、制作するわたし(の意識)に、常に「間違えろ」「忘れろ」という形で介入してくるのではないか。そしてそれをなんとか突破しようとすると、「自分の脚の動きを意識することで動けなくなってしまうムカデ」状態になる。でも、この状態は逆にチャンスなのではないか(と、自分に言い聞かせる)。
●それってたんにフリーズするということで、やろうとしていることに対してスペックが足りないというだけのことなのでは…、という疑いもあるが。