●ムサビまで境澤邦泰さんの絵を観に行った。クールベの曇天とバルチュスのフェティシズムを感じる。おそらくフェティシズムという言い方に作家は納得しないと思うけど。でもこれはやはりフェティシズムと言っていいように思った。タッチを重ねる行為へのフェティシズム、絵の具を塗る行為へのフェティシズム、それは絵画(油絵具によって絵画を描くこと)へのフェティシズムなのではないか。つまり、フェティシズムによって「絵画」を支えているということではないか。
七十年代のモノクロームの絵画(山田正亮とか桑山忠明とか)とほとんど同じようでまったく違う。で、何が一番違うかと言えば、それはフェティシズムの有無ではないだろうか。作業の手順そのものはシステマティックなのかもしれないけど、その作業の一つ一つ、一筆一筆に念がこもっている、あるいは、ある執着が絡み付いている、のではないか。そのような執着が、作業を、作業の先にある目的から逸脱させる。昔のモノクロームの絵画における禁欲や抑制は、大文字の「絵画」への信仰によって支えられていたのだと思う(藤枝晃雄がそれらを「演繹的」な作品と言ったように、信仰−形式−結果が先にあって、行為はそこから逆算されている)。しかし境澤さんの作品には禁欲や抑制は感じられず、そこにあるのはむしろだだ漏れの欲望のように感じられる。信仰−目的に向かう抑制された行為があるというより、欲望に導かれた行為(というか、行為に織り込まれた執着)が、結果として信仰を支えうる強さ(平面)に達する、というような。そこには信仰が事前には成立しない(信仰を保証する権威はどこにもない)という絶望も含まれている、のではないか。
行為という襞に織り込まれた執着は一種の習慣を形作り、その習慣がフェティシズムの対象となる、というような。フェティシズムの対象となった習慣が制作の持続(要するに人生の時間)を支え、目的となる「平面」はそこには決して到来せず、しかし、時間のなかでバラバラになった一筆一筆を塗りこめてゆく行為が、あるいは、ある一筆と次の一筆の隔たりや遅れや不一致、しかしそれによってに生じるリズムが、決して統合されることのない(到来することのない)平面への細い通路として存在している、というような。
境澤さんの作品を一見して感じる感覚は「時間の塊」というようなものだろう。半透明の油絵具の層が積み重ねられるのだが、それは一筆一筆によって塗りこめられるために場所によって不均一であり、その不均一は空間的の不均一であると同時に時間の不均一であり、時間のずれは目的のずれにつながる。一筆一筆の塗り重ねは、行為としての習慣の持続のなかにありつつも、その時の視点、気分、感覚、判断基準、などにその都度ブレが生じることで、決して「一つの平面」には収斂していかない。とはいえ、出来上がった作品は一見モノクロームの「ほぼ」均一に近いものに見えるので、時間的なずれを分節化してくれる「しるし」を画面内に確定的に見つけることができない。だからそれはずれの塊としてずれつづけるしかなく(つぶあんのように、「あんこ」として混じり合いながらも粒粒が主張する)、目はその平面の位置を定位できない。