●お知らせ。明日、13日付けの東京新聞夕刊に、17日からなびす画廊ではじまる杉浦大和・展(8月4日まで)についての文章が掲載される予定です。展覧会はまだはじまっていませんが、杉浦さんのアトリエにお邪魔して展示する作品を見せていただきました。
今、現在、このような絵が描かれ、杉浦さんのような画家が存在しているという事実に対して、みんなもっと「緊張」すべきだとぼくは思います。作品そのものは、人に過度な緊張を強いるようなものでは決してありませんが。
http://www.nabis-g.com/kikaku/k2012/sugiura-h.html
●書かれたこと(形づくられたもの)は、書かれなかったこと(顕れなかった形)と常に同時に、分離できない絡み合ったものとして存在する。
顕れた形は、顕れなかった形を抑圧するのではなく、顕れなかった形こそを表現するのだが、それは決して、顕れなかった形たちを「代表する」のではなく、顕れなかった形たちとの不可分な絡み合いや共振によって、それを表現する。
顕れた形は、その形が顕れることによって顕れることのなかった多数の形たちの束のなかから顕れるのであって、顕れなかった形たちの束と同時並列によって(排他性が成立しないので、それとの差異によって、というのでは必ずしもない)はじめて「そのように」存在する。顕れた形と顕れなかった形たちは同等の力で相互作用していて、その相互作用こそが「顕れた形」によって現されるもっとも重要なことなのだ。顕れなかった形たちとの相互作用を現すことのない(排他的な、あるいは代表のような)「顕れた形」は退屈であり、顕れた形から、顕れることのなかった形たちとの相互作用を読みとろうとしない「読み」は退屈である。
顕れることのなかった多数の形たちは、ある形が顕れることによって、その相互作用によって、顕れた形と同等の強さをもつことになる。そうでなければ「表現」に何の意味があるのか。潜在性が潜在的であるままに顕在性のなかに巻きとられる。顕在性が潜在性を(メレンゲに含まれる空気のように)巻きとる時、存在(顕在)と可能性とは別のものではなくなる。0.1パーセントの可能性は、0.1パーセントの可能性として「存在する」。
●今日の机の上。面白かったのは、これを写真に撮るとき、左右にある絵はマティスダ・ヴィンチも「顔検出機能」が作動するのに、正面のマティスの絵では作動しなかったこと。正面のマティスの描く顔は、通常の意味では「顔」から逸脱しつつも、顔であることが完全に解体しているのでもなく、まぎれもなく「顔」というしかない何かだ。それは人間の顔でありつつ、人間的な意味からは別の領域に逸脱し、しかしなおも人間にとってもぎりぎり「顔」として経験可能だ。




●それしてもこの顔の描出は見れば見るほど面白い。マティスの描くこの顔のようにして、(たとえば小説においても)この世界のあり様を描き出すことはできないだろうか。