●お知らせ。ベーコン展について、永瀬恭一さん、上田和彦さんと話した時の録音が、「組立・転回」のサイトにアップされています。
http://kumitate.org/index.html
この対話に至る過程については、永瀬さんがブログで書いてくださっています。
http://d.hatena.ne.jp/eyck/20130513
●ベーコンの話と直接は関係なくなってしまうのですが、この対話のなかでもぼくがちょっと話している「隙間」の話を少し補足的に説明したいと思います。隙間の話はこの日記の四月十九日に描いたこととも関係しています。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130419
●まず、大きな紙の上に顔(頭部)を一つ描いたとする。その時、顔のイメージは、顔として描かれた部分だけで成り立っているのではなくて、その頭部が存在可能な空間があることによって成り立つことになる。だから、紙の上に顔を描くと、それと同時に、頭部が存在している空間を描くことにもなる。例えば下の図のように、顔(頭部)を描くことで、だいたい緑色の円で囲んだくらいの範囲に(まったく何も描かれてないし、紙の他の部分とまったく同じなのにもかかわらず)三次元空間のイリュージョンを発生させることになる。



●下の図の左側は、右側のような顔を描こうとして、最初に描いた輪郭線なのだが、この輪郭線を描きながら、同時に、(1)の場所に頬骨があり、(2)の場所に首のつけ根があり、(3)の場所に鎖骨があること(人体頭部の空間的構造)が意識されている。つまり輪郭線は「線」として描かれるのではなく、平面の上に既にイメージされた三次元空間の(イリュージョンの)なかに描かれる。つまり、最初の輪郭線を描く時、既に(4)くらいの範囲の三次元空間はイメージされている。
ここで生まれる(描くという行為を通じて意識される)空間の大きさは、イメージが描かれることによって生じる(逆から言えば、イメージを成立させるために必要な)空間のフレームであって、実際の作品の物理的フレーム(紙なりキャンバスなりの物理的な大きさ)とはいつもズレをもっている。そしてこのひろがりは、イメージ(図)を暗黙のうちに支える見えない「地」でもある。
(ここで「地」とは、広い意味では、ある図――意味――を成立させる暗黙の文脈のことだと言い換えてもよいだろう。)



●例えば、大きな紙の上に顔(頭部)を一つ描き、そのすぐ横に、それとは縮尺の異なる別の顔(頭部)をもう一つ描いたとする(下の図)。



●この二つの顔(頭部)の描出は、だいたい、緑の円と紫の円くらいの範囲で「地となる空間座標」を同時に出現させる(必要とする)。だがこの時、二つ顔は縮尺が異なるから、この二つの空間は互いに矛盾する(混じり合わない)。つまりこの二つの空間(地)の間(重なり合う部分)には齟齬があり、隙間がある(下の図)。
ぼくが「隙間」ということで言いたいのは、物と物との間にある隙間ではなく、あるいは、イメージとイメージの間、色面と色面の間、筆致と筆致の間にある隙間ではなく、このような、地と地の間にある齟齬のことだ。
だが、そのような地と地との齟齬は、通常見えない。上の図のように縮尺が違うイメージが並んでいたとしても、我々は通常、その齟齬を間にある余白のなかに曖昧に吸収して滑らかにしてしまうから、ごく当たり前のように受け入れることができる。例えば映画でも、バスとショットからクローズアップにかわっても、顔が大きくなったとは思わない。



●例えばマティスの「赤のハーモニー」では、赤いフィールドがまさにこの余白のように隙間の齟齬を調整するものとして作用し、複数の異なる地(座標)の齟齬を吸収し、並立させる。それは逆に言えば、異なる地の相互陥入=並立を可能することで、潜在的な齟齬を創造することを可能にするということでもある。齟齬は見えないとしても、そこにある。
ここでは説明のために分かり易く、「地」の異なりを「縮尺」の違いとして例示したのだけど、縮尺の場合、そのスケールをどんなに違えようとも、結局は同じ三次元空間を前提としているのでそこに吸収されてしまって、実は本質的な齟齬とは言い難い(三次元という地平をすべての人が共有するからこそ、古典的な映画のカットは繋がる)。この点をことわっておく(マティスはもっと根本的に異なる地たち――リテラルには二次元と三次元――を相互陥入させようとしている)。




●下の図は、同じ人物を異なる距離から撮った二枚のスナップ写真だとする。スナップ写真の場合、先ほどの描かれたイメージとは違って明確なフレーム単位(例えば「サービスサイズなど)をもつ。



●二枚のスナップは、下の図のように、それぞれに異なる空間性(縮尺と言ってもいいし、文脈と言ってもいい)を背後にもっている。



●そしてその二つの(別の文脈をもつ)イメージを「同一人物の顔」だという共通点において強引に接合してみると、下の図のようになる。ここでは、同一人物の顔であることの媒介によって、異なる二つの地が接合され、それによって落差(隙間)が可視化されていると言える。つまりここでズレているのは、可視的なイメージではなく不可視の地の方であり、イメージのズレは地のズレを感知させるための仮のものだと言える。



●例えば下のマティスの絵が感覚に対して強く作用するのは、イメージがズレているからではなく(イメージのズレなど大した問題ではない)、イメージを支える不可視のものとしての地がズレていて、それが、イメージのズレを通して露呈されているからだと言える。このような「地のズレ」によって隙間の存在がはじめて感知される。



●繰り返しになるが、ぼくが言っている「隙間」とは基本的に「見えない(感覚がない)」ものであり、我々は、隙間だらけ、穴だらけの世界にいながらも、あたかもそれが滑らかに連続しているように「この世界」を(認識や感覚としては)構成している。だが時々、そこに「隙間がある」ことを思い知らされる出来事が起こる。
ただ、隙間は、空間と空間、地と地とを断絶させているものであると同時に、その断絶を通して、異質なものたちを相互陥入させるものでもある。隙間はハサミであると同時に接着剤でもある。隙間(空隙)は感覚できないが、隙間があるから我々の感覚は成立している。≪何かするということは空虚でできている≫(アラカワ+ギンズ)という時の空虚のようなものとして。