●延滞してしまっていた図書館の本を返しに行って、書棚の間を少しぶらぶら歩いて、小林秀雄全集とかをパラパラみていたら、「人間の建設」というタイトルの岡潔との長めの対談があって、面白そうだったので借りてみて、建物の外に出て、(とてもいい天気だったので)図書館の中庭のベンチに座って、夕方になって少し風が冷たくなって肌寒さを感じるまでそこで読んでいた。ベンチは噴水を囲むようにあって(ただ、噴水に今は水はない)、噴水のへりに座っている丸坊主に白シャツのおっさんが聞いているラジオの相撲中継がずっと聞こえていた。
汗をかいていたので気付くと思いの外からだが冷えていて、トイレにいきたかったのだけどベンチから立ち上がった時には図書館はもう閉館していて、家まで歩いて四、五十分かかるのだけど、トイレのある公園を見つけるまでその後そこから三十分以上歩くことになった。
●帰ってからもしばらく読みつづけた。これはとても面白いのだけど、共感するというよりもむしろ、常に違和感が強く喚起されるという感じで、その違和感こそが面白い。この違和感は、小林秀雄岡潔の言葉が、今から見ると古臭く感じられてしまうある時代性の制約によって規定されてしまっているところからくるものなのか、それとも、違和を感じているぼくの方が、別の枠組みによって強く限界づけられているということなのか、読みながら常にそのような問いをつきつけられている感じが面白い。この対談は昭和四十年に行われている(ぼくが生まれる二年前だ)。
●例えば岡潔は、相対論や量子論(ここでは波動論という言葉が使われている)に対して否定的なニュアンスで、数学的、理論的に正しくても、それが「情緒」によって納得できるものでないならば、それ(物理学)は具体性を離れて抽象化してしまうというようなことを言っている。これは見方によれば相対論や量子論に対する典型的な反応の一つだとも言えるのだけど、それを言っているのは小林秀雄ではなく岡潔の方だということを考えると、これを典型的な反応として済ましてしまうのは無理がある。
●それと関係があるのかどうかわからないが、岡潔は物理学と数学の「リアリティ」の違いについて、物理学は自然の本質を解明しようとするものだが、数学は自然をクリエイトするものだという言い方をしているのがとても面白い。この認識が一般的に「数学者」にどれくらい共有されるものかはわからないし、物理側からの反論も当然あるだろうけど。
≪かりにリアリティというものはあるのですけども、見えてはいないのです。それで探しているわけですね。リアリティというものは、霧に隠れている山の姿だとしますと、それまで霧しかなかったところに山の姿の一部が出てきたら、喜んでいるわけですね。だから唯一のリアリティというものがあって、それをどう解釈するかというふうなことはしていないのです。≫
≪物理学者の場合、リアリティというものは、人があると考えている自然というものの本質ということになりますね。それに相当するものは数学にはありません。だから見えない山の姿を少しずつ探していくということですね。ある意味では自然をクリエイトする立場に立っているわけです。クリエイトされた自然を解釈する立場には立っていないのです。≫
≪そうです。ないところへできていく。できていく数学を物理では唯一の正しい解釈をさぐり当てようとする手段として使うのでしょう。例えばアインシュタインはリーマンの論文をそのまま使った。そういうことを数学はしない。無いところへ初めて論文を書くのを認める。だから木にたとえると、種から杉を育てるということになって、杉から取った材木を組み合わせてものをつくるということはやりません。≫
≪情緒のなかにあるから出てくるのには違いないが、まだ形に現れていなかったものを形にするのを発見として認めているわけです。だから森羅万象は数学者によってつくられていっているのです。≫
●このような言葉から、岡潔が「情緒」という語に込めている意味が少し伝わってくる気がする。情緒とはここで言われる「見えない山」に近い感じだろうと思う。それにしても「森羅万象は数学者によってつくられていっている」っていう感覚はすごく面白い。
●この対談は、小林秀雄が、今日は大文字の山焼きがあって、ここからも見えるみたいですと切り出すのだけど、それに対して岡潔が、自分はそのような人為的なものには興味がないと言い、「小林さん、山はやっぱり焼かないほうがいいですよ」と言うところから始まる。