●『苫米地英人、宇宙を語る』という本を読んだのだが面白かった。この本に書かれていることが科学的にどの程度の妥当性があるのか、そもそも科学としての精度を問い得るものではないのか(苫米地教の経典のようなものなのか)を判断するだけの能力はぼくにはないけど、無責任に、思弁的なエンターテイメントとして、SF小説のように読むならば、刺激的なアイデアが沢山つまっている面白い本だと思った。
(ブルーバックスのような科学の啓蒙書として捉えてはいけない本なのは確かだろう。すごく壮大な話をしているのに最終章がいきなり自己啓発本みたいになっていて、そこに着地するのか!、という感じで、それがまた胡散臭くも面白いのだが…)
例えば次に引用するようなところが面白かった。
≪(…)可能宇宙、あるいは情報宇宙へと目を転じれば、実に多くの宇宙があると考えることができるのです。
そして、今、私たちがいる物理宇宙は情報宇宙の可能性の一つ、もしくは、情報宇宙のパラレルワールドの一つにすぎないと見ることができるのです。
つまり、多くの可能宇宙の中から、私たちが最大公約数的に共有しているスペースを定義上、物理宇宙と呼んでいるにすぎないのです。
それが何を示すかといえば、先ほどもいったように他人と共有することができるほど抽象度が低いということです。
抽象度が上がれば上がるほど情報量は減っていくわけですから、物理宇宙は情報量が多い場所だといえます。情報量が多いから、五感で感じ取ることもでき、他人と共有することもできるのです。
情報量とは、リアリティや臨場感と言い換えれば、よりわかりやすいでしょう。『鉄腕アトム』や『あしたのジョー』に大きな影響を受けた人にとっては、その存在は極めて臨場感を持ったものであってリアルだったのです。
改めて物理宇宙を定義すれば、可能宇宙のなかで、自分が一番リアリティや臨場感を持っている宇宙ということでしょう。
逆の見方をすれば、情報宇宙もそれを認識する人間が臨場感やリアリティを持って受け入れれば、物理宇宙になるのです。≫
≪(…)通常私たちは、この臨場感ある物理宇宙を一つしか選び出すことができません。しかし、『マトリックス』の中には、二つの物理宇宙がありました。≫
別のところで筆者は、情報宇宙(可能宇宙)と物理宇宙を媒介するものとして「計算機」があるという言い方をしていた。例えば、「巡回セールスマン問題」のような非常に抽象化された複雑な問題(情報宇宙)があって、その問題を現在最速のスーパーコンピュータが解くために数百億年かかるという「計算」ができたとする。その時、「巡回セールスマン問題」という抽象的な「問題」が、その問題を解くために必要な時間とエネルギー(コンピュータが使う電力量など)という、物理宇宙における「物理量」に換算できる(変換できる)ということになる、と。つまり、抽象的問題(情報宇宙)と物理量(物理宇宙)とをイコールで結ぶ式を書くことが出来るのだから、(エネルギーと質量とが同じものであるというのと同じ意味で)情報と物質は同じものだと言える、と。そうであれば、可能宇宙というものが、論理学の問題ではなく物理学の問題になる、と。それがあった上で、上の引用部分がある。
(物質と情報は別物ではないという話は、物理学の宇宙論の本にはしばしば出てくるので、それ自体は珍しくないけど、それがここでは――ライプニッツ的な?――モナドジーと共可能性みたいな形ででてくるのが面白いと思った。あと、フィクションの世界も含めた複数の物理的世界があり得るという話も面白い。これに近い話は確かドイッチュの本にも出てきた。)
抽象度が上がると具体性が下がるという話は、例えば、犬や猫という概念に対して「動物」という概念は抽象度が高く、その両者を包摂するけど、そのかわり、犬や猫という具体的細部は消える、ということ。筆者は、情報宇宙で最も抽象度の高い(情報量の少ない)概念は仏教の「空」だとして、それは「有/無」という対立(矛盾)をも包摂するという。抽象度が下がると、情報量(臨場感)が増え、故に矛盾が生じるが、抽象度が上がると、情報量が減り、そのかわり矛盾が包摂される、として、そのような情報宇宙のあり様を数学の「束論」によって説明している(引用する最初の文が、文としてちょっと変だけど、意味は通じる)。
≪束というのは、二つの順序集合の要素があったとき、その共通の上位要素を上界といい、その中で掛け算の最小公倍数に当たるようなものを最小上界、リースト・アッパー・バウンド(Least upper bound)、LUBといいます。
例えば、犬と猫の最小上界は動物、という感じです。
反対に下位の要素もあり、それが下界で、その中の上位に位置するのを最大下界、グレーティスト・ロワー・バウンド(Greatest lower bound)でGLBと呼んでいます。
ペットと動物の最大下界は犬、という具合です。
このLUBとGLBの二つがあるものを束というわけですが、いうなれば、ワラに包まれた水戸納豆のようなものですね。
どちらかの要素しかないものを亜束といいます。≫
≪そして、西洋哲学のオントロジー、つまり存在論においては、宇宙の中からどんな任意の二つをもってきても、必ずGLBになるものはあると考えます。つまり宇宙の一番下にあるものです。
例えば、ライターと猿のGLBは何ですかといわれると、戸惑うわけです。
(略)
それは「矛盾」です。同時にこの二つの存在が成り立つ情報とは矛盾そのものではないでしょうか。
宇宙のすべての存在のGLBは矛盾と定義する。それが西洋哲学です。しかし、宇宙を束と見たとき、上は閉じていないのです。
実は東洋哲学では閉じていると考えています。
(略)
答えは「空」です。有でもあって、無でもあるとは、釈迦が発した「空」の定義以外のなにものでもありません。
この東洋哲学の考えを入れることで、宇宙の上界も閉じたことになります。≫
≪(…)改めて定義すれば、宇宙とは情報量の多寡で並べ替えることができる包摂半順序亜束である、もしくは束である。
束として見るのであれば、「空」をトップとして、「矛盾」をボトムとした、包摂半順序束であるいうことになります。
つまり、一言でいってしまえば宇宙はすべて情報であるということなのです。≫
●この本では、基本的には一人一人がそれそれぞれ別の情報宇宙を生きているのだけど、それではつまらないから(寂しいから)、みんなで共有できる、共可能性を試すことの出来る場として物理宇宙をつくったのだ、という話になっていて、まあ、モナドジー的なのだけど、しかしここでは、そのモナドさえも固定されたものではなくなっている。
自我というものを二つの方向から捉えられると書いていて、一つは、宇宙のなかのある点に固有名をつけて特定することで、それがわたしとなるということ。もう一つは、その点にまつわる様々な関係を数え上げることで、関係するものの集合がわたしだということ。しかし、ただ「関係するもの」を数えあげるだけでは、すべてのものは他のすべてと何かしらの関係をもつとも言えるので、宇宙全体にまで広がってしまってとりとめがない。
≪そこで、ネットワークの中の一部である自我を選び出すために、部分関数ではなく、評価関数で考えることで、よりわかりやすくなるのです。
評価関数とは状態を定量化して示す関数のことですが、それを利用することによって重要度で並べ替えることができるようになります。
例えば、遺伝子情報と好きな食べ物を比べた場合、いずれも自我に関わる点ではあっても、重要度としてみれば好きな食べ物の評価は低くなってしまいます。
つまり、自我とは重要性で並べ替えることができる評価関数ということができるのです。
その見方は部分関数と何が違うかというと、自我を純粋な部分関数として見たときは点という位置の話ですから、誤解が生じやすくなってしまうのです。なぜかというと、その点が未来永劫、維持されるわけではないからです。
親は誰で、好きなものは何でと、ありとあらゆる関係が集まった、その線の交わったところの点が自我です。
その点が固有に存在していて、そこから関係の線が出ているわけではありません。≫
≪(…)評価関数として見ると、好きなものが変われば、評価も簡単に変えられます。実際、好きな食べ物は昨日と今日とで変わることだってあるでしょう。そうしたら自我も当然かわるわけです。≫
●ここから思い出すのは、カーツワイルの「自分の体の部分を少しずつ機械に変えて行ゆくと、そのうち、気付いたら知らないうちに体のすべてが機械に切り替わっていた、ということになって、そうだとしても、〈わたし〉は連続して〈わたし〉でありつづけているだろう」みたいな話だ。