●西川アサキ「「この緑」をどうするのか?」(「現代思想」六月号)を読んだ。西川さんの論考はいつも「主体、心身問題、死」をめぐるものとなる。ただし、ここで主体とは、主体の能動性、責任、自由、あるいは自我などの問題とはほぼ関係のないものだろう。おそらくそれらのものはほとんど信じられていない。主体の問題が消えないのは「死の恐怖」があるからであり、そうである限り心身問題からも逃れられない。西川さんにとってはおそらく「心身問題」を説くということは死の恐怖を解除することであり、それが叶うとすればその時、主体(中枢)の問題は自動的に消失する、ということではないか。
過激な思想をもち、テリトリーを形成することなく(会社にも行かず家も持たず)、路上で野垂れ死ぬことは誰にでもできるはず(その自由は誰にでもあるはず)だ。その時はおそらく主体も心身問題も問題とはならなくなる。しかし、何故かほとんどの人はそうしない(多くの人は、それが望ましいとは思わない)。そうはさせない力こそが死の恐怖であり、「(多くの人が)そうはしない」という事実こそが主体化する力の作動の証明であろう。ほとんどの人が、職場に出かけ、家へ帰ってくる。主体の消失を論じる人もまた、職場に出かけ、家へ帰ってくる。この回帰と循環こそが主体であるとすれば、主体の消失を論じること――それが「正しい」ことであること――と、(それを論じる人において)主体の循環が成立することは平気で両立する。逆に言えば、そのような意味においてだけ主体が問題となっている(自由や責任の問題ではない)のだと思う。
ガタリ『分裂分析的地図作成法』にある図の書き換え(書き足し)、ガタリ+アリエズの資本主義分析の地図製作(国家・市場・生産)からヒントを得た人格的価値評価(ゲーム・面白さ・真理)の話、そして抽象機械の(スケールとは無関係のとりとめのない)相互包摂の話を経て、「面白さ」の抽象機械の話へ至る展開などは、まさに西川アサキにしか書けないような話で、面白すぎるくらいに面白いのだが、このような(融通無碍で縦横無尽な、と言っていいと思う)形で思考を展開する人でもなお、死の恐怖は問題であり、主体が問題であるというところにこそ「問題がある」、ということを、この論考はパフォーマティブに示してもいるようにも思う。
(窓際の植物による感覚「この緑」が、「自我、超自我、理想自我などの構造」を経由して「実存的テリトリー、回帰するもの、家、組織、通勤経路」にたどり着き――ここまでが精神的なカテゴリーだ――こんどはそれが「IDカードと使用者同定システム」に把捉され、様々な物質的な流れが形成する「サイバネティックス=フィードバック」システム――これはざっくりと「身体」の側と言っていいのだろう――と結び付けられ、そこから、習慣化された感覚を通して「この緑」にもどってくる循環として「主体(心身問題)」を図解する、ガタリの図の上に重ね描きされた図は――この論考では否定的に扱われているけど――面白くて見入ってしまう。この図は、≪(…)「精神」と「物質」のどんな小さな相互作用にも、毎回宇宙全体に匹敵する流れの相が含まれうる≫ことを示す。)
●主体や心身問題が「問題となる」ということはつまり、「どのようにしたらそれらが問題ではなくなるのか」を問うということだ。それは、どうすれば死の恐怖から逃れ、抑圧的で一貫した主体化(この私)から逃れられるのかということである。その方法の一つとして芸術が挙げられている。芸術とは別の宇宙の住人となる実践であるという。
≪選び抜かれた視点変換操作に対し、変換にもかかわらず不動になる法則=視点と無関係な法則を「物理法則」と呼ぶなら、この絵はベーコンという視点操作集合がなす別の物理法則、別の宇宙だ。≫
≪なぜ、こんな作業をする必要があるのか? それは「主体−心身問題−死」の区域外が存在することを、主体=自分に証明するためだ。だから、それは公開される必要はない。(…)他人の作品を観ているだけではダメなのか? 恐らく無理だろう。自転車に乗るのと自転車競技を観るのは違うからだ。あるいは、実際に「無限速度」に触れ、それをなんとか「減速」するプロセスを体験し続けなくては、たとえ外に一瞬触れても、それを習慣の中に溶け込ませることができないからだ。≫
≪逆に、たとえ個人的作品が、芸術の歴史、アートのイノベーションとして無意味で稚拙だとしても、それはどうでもいいことだ。(…)脱出のプロセスは、最高のレディメイドよりも、屑のようなオーダーメイドの必要がある。≫
●だが、西川さんはこれでは満足しない。これは一つの答えではあるが、職場へ出かけ家へ帰るという循環のなかでの、家で行う閉ざされた個人の作業でしかないからだろうか。職場−家という循環が主体をつくるとすれば(正確には、「家、組織、通勤経路」が回帰するものの実存的テリトリーとされている)、「家」ではなく「組織」の方を変化させることも考えられる。たとえば組織の原理を「一貫性」から「面白さ」へとシフトする、とか。主体を変化させ得る「面白い」「丁度よい」摂動というものが考えられている。
≪「フロー」という心理学の概念がある。自分のスキルにとって、丁度良くチャレンジングな課題をこなしている時間、夢中になっていて、前後を無視し没頭する体験を意味する。≫
≪(…)先に述べたフロー体験は、「この緑」への違う視点を獲得していくプロセスでもある。それは「丁度良い学習」だからだ。しかしそれが丁度良いのは、主体を破壊するほどの摂動ではない、という意味でもある。≫
≪もし「面白さ」が絶望ではなく、丁度良い問題と解決の連鎖なら、それはテリトリーと主体の側にある。一方それが絶望と脱出なら、それは主体の外に誘う。≫
≪丁度良い段階があるだろうか? たとえば、非常に面白い考えを知り、生き方を自然に変えるというような。恐らく、ガタリらに先の問いがなかった理由は、この「面白さ」の両義性に対し、あまり興味を持たず、「幸福」という概念を軽蔑したからだろう。しかし、それは結局生理的欲求の支配力に対し無防備になることを意味する。≫
≪たとえば「面白さ」を最優先する法人格が世界を覆い尽くし、搾取があってもそれを気にしない程度の生活資源分配が達成されたとしよう。それは、たとえ制度が変わらなくとも、既に「革命」なのだろうか?≫
●それはきっと革命以上にすばらしい社会変革だと思うけど、しかしおそらく、このような「丁度良い面白さ」の組織によってでは、死の恐怖から解放されるところまではいかないのではないか。よって≪結局、「面白さ」という抽象機械の相で、我々は再び死に刺され、機械の宇宙はたんなるひとに収縮する≫ということになる。そうなるとやはり「芸術」が…、と、ぼくなどは思いがちなのだけど、とはいえ、「面白さ」によっては死の恐怖からの解放が本当になされないのかはまだ分からないし、いろいろ試してみる余地はあるようにも思われる。
●「芸術」と「面白さ」の違いにちらっと触れているところも興味深い。
≪(…)「面白さ」というのは、結局のところ常識に回収されるような「効率性」を評価軸として伴うことが多い。たとえば「前提拡張」で触れたように、最小の変更で最大の変化が得られることが望まれる。その意味では「面白さ」は一種の「摂動論」で、たとえばベーコンの絵とは違うのかもしれない。そこでは、あまり少ないとはいえない前提変更が行われ、結果は単なる絵である。≫
●西川さんが期待しているのは、実は注の「29」に書かれているような方向なのではないか、という気もするのだけど。
≪脳には「自分に関する記述」と「他人についての記述」を区別するタスクをする時、活溌になる部位がある(…)。もしこの部位が停止すれば、まさに、自分と他者の区別ができず、対称性が回復し、だが、意識はあるという状態が起きうる。その場合、人称性と意識の問題は分離するだろう。さらに、無生物と生物を区別する部分も停止してしまえば、あらゆる視点を対称的にみなす感覚が現れても不思議はない。夢では、そういう状況が頻繁に起きていると思われる。この場合、脳の機能変化に問題は還元されそうだ。が、脳の意識可能な範囲を大きく変更できるなら、それが潜在的に持っていた非常に複雑な感覚を開示することは、我々の死生観を変えうるかもしれない。我々は、生理的に死の恐怖を捨てうるのだろうか。≫