●『魂のレイヤー』(西川アサキ)の吉本論を、もう一度読んだ。この章は、この本のクライマックスにして自己言及であるような章だと思った。それにしても、ルーマン、(ポスト)オートポイエーシスガタリ初音ミクフォン・ノイマン量子論などを対象に、様々なあたらしい科学的知見を参照しつつ語られるこの本の、クライマックスにして自己言及であるような章が、吉本隆明論であり、それも『言語にとって美とはなにか』について書かれたものだということに、驚く。
前の本で「中枢」とされていたものが、この本では主に「観測者の位置」あるいはたんなる「視点」となっているように思う。しかし(「主体」とはとても言えない)このたんなる「視点」は、「死を恐れる」。
吉本論で立てられる問いは、「どうせ死んじゃうのに、美なんて意味あるの?」という恐ろしく素朴かつ強力な問いで、しかしこの問いこそが、この本全体を通してずっと問われていることでもあるように思われる。そのような意味でこの本は、ものすごく広い(あまりにも広すぎる)意味で「芸術論」の本だというふうに、ぼくは読んだのだが、これは自分の関心に無理やり引きつけた恣意的な読み方ではないと思う。
ドゥルーズガタリは主体を否定する。しかし、量子論などの現代の物理学では、観測者の位置や基底の選好がなければ、そもそも観測が成り立たないし、観測の結果として得られるものは、観測者の位置や基底の設定に依存する。つまり、視点を否定すると具体性を失う。故にドゥルーズ=ガタリの「宇宙」はベタ塗りの平面のようなものでしかなく、ガタリの夢には具体性が欠けている。だがこの本は、それを批判するのではなく、どうすれば「ガタリの夢」に、実現可能で、しかも「今とは別のもの」としてある具体性を与えられるのかが追究される(勿論、だからといって「近代的な主体」を要請するような反動とはまったく異なる)。
その答えの一つとして、観測者の位置(視点)が次々と移り行き、しかも、移りゆく(異なる時間に属する)視点たちの間で「比較」が成り立つような視点の移り行きの可能性が探られる。それは、中枢が次々と交代してゆくというヴィジョンでもある。この本でそれがもっとも追い詰められているのが吉本論だと思う。
死を前にして「美」はどのような意味をもつか、という問いに二種類の答えが示される。一つは、死への関心や、主体を排除することで、死(死の恐怖)を消去する機能を持つのが美である、と。これはドゥルーズガタリの解だ。二つ目は吉本による解。死を、別の仕方で見つめるための視点(観測装置)をつくるための、その都度のやり方こそが「美」である、と。ここには普遍性はなく、その時代や社会との関係のなかで、その時にしか成立せず、前の時代の美は次の時代の常識となってしまう(この、美=常識の積み重ねこそが「魂のレイヤー」と呼ばれる)。
吉本の言語論では発話者(観測者)のみが問題とされ、読者(消費者)の位置がない。要する、美は読者の快楽ではない。
まず、社会と自己との関係を観測する視点(記述者)がある。この観測行為そのものによって自己が変化し、社会との関係も変化する。つまり、自己/社会関係(1)→自己/社会関係(2)→自己/社会関係(3)という変化があり、間に転換(断絶)がある。これが、意味的な転換(意味のかわりめ)と呼ばれる。それに加え、(1)→(2)という転換を観ている観察者の次元もある。これが意味に対する喩の次元だ。この喩の次元の観察者もまた、(1)→(2)の意味的転換を観測する視点「一」から、(2)→(3)の意味的転換を観測する視点「二」へと転換する。この「一」→「二」の変化が、「喩のうつりゆき」だとされる。そして、「意味のかわりめ」を「喩のうつりゆき」で割ったもの(分数として、分子分母として表現されるもの)が、吉本にとって「構成」であり、「美」ということになる。吉本における「構成(美)」は、転換(断絶)によって構築されている。
例えば生物学的にみて、生殖の目的(合理性)は「子孫の数を増やす」ことであるとする。しかしそこに「同性愛」という現象(転換)が生じると、前の目的(合理性)が成り立たなくなる。そこで、事後的にそれは「群れの支配関係の強化」に貢献するのだという、別の目的が新たに付与される。つまりここでは、そもそもの目的=合理性=基底が(後から)書き換えられ、変化してしまっている。吉本における構成=美とは、このような事前には予測できない(意味的)転換にともなう、「基底そのもの(喩)」の書き換えの運動(展開)を含んでいる。これが、次々と交代しつつも、互いに比較可能な「中枢(視点)」のアナロジーとなる。
≪「吉本の美」は、(…)「観測者の位置=目的」の再定義群が、対象と自己の間でどういう曲線を描いていくのか、を記述するものだった。≫
≪つまり、「吉本の美」は、「趣味」の相対性とは別に、合理性の再定義を生み出すプロセスだ。説明できない動物行動を発見する度に、目的を書き直す生物学者のように自己を観察する。恐らく、吉本はそこまで考え、「美」の定義から消費者=読者の喜びをあえて抜き、かわりに発話者の観測対象という軸を入れた。≫