2019-06-13

(昨日のつづき) 「喩としての聖書――マルコ伝」(吉本隆明)でもう一つ面白かったのは、なぞなぞのような比喩の交換によって信仰が試され、奇跡が実現されるということが書かれているところ。

マルコ伝の第8章で、イエスがツロの地方に行った時、悪霊に憑かれた小さな娘をつれた母親がやってきて、悪霊を追い出してくれとイエスに頼むエピソードが書かれる。しかしイエスはその前の土地で、群衆から取り囲まれ、様々な要求をされていて疲れてしまって、静かに退きたいという気持ちでこの地方へやってきた。そんなところに、悪霊に憑かれた娘をつれた母親がやってきてしまった。

ここで、イエスと母親とは、比喩を取り交わして対話する。

《まず、(エス)子どもに飽かしむべし、っていうんですよ。飽かせるっていうのは飽きさせるってことですね。まず、子どもに飽かしむべしと、子どものパンを取りて、小犬に投げ与えるはよからずっていうふうに言うわけですよ。つまり、どういうことかっていうと、まず、子どもに満足させてやるべきじゃないかと、それで、子どもに満足させてやらないで、子どものパンを取り上げて、犬にやっちゃうっていうのは、それはいいことじゃないよっていうふうにイエスが言うわけです。》

《で、それに対して、娘を治してくれって連れてきた母親が、然り主よ、食卓の下の小犬も子どもの食べ屑を食らうなりっていうふうに言うわけなんですよ。どういう意味かっていいますと、そうですあなたよ、だけどね食卓の下にいる犬も、食卓の下に犬がいるとすると、その犬は子どもがパンを食べていると、食べ残しっていうことじゃなく、食べてると同時にこぼれ落ちたパン屑を小犬が食べるんですよっていうふうに、食べるもんじゃないですかっていうふうにその母親は答えるわけです。》

《その答えを聞いて、イエスは、汝この言葉によりて、安んじて行けって言うわけです。そしたら、治ったっていうわけです。つまり、そしたら治ってたっていうわけです。つまり、この言葉によって治ったっていうわけです。つまり、おまえの答え方っていうのはいいって言ってるわけです。見事だって言ってるわけですよ。だから、治ったって言ってるわけですよ。》

●ここでは、例え話に対して、例え話で答えている。このとんち問答のようなやりとりによって、母親の信仰は確認され、娘の悪霊は払われる。

《なんのことがわからないでしょう。しかし、わかんないでしょうけど、解釈を、つまり、わかんないってことは喩なんですよ、喩。喩でもって問答しているわけです。そうすると、喩でもって問答して、それでわかんないわけです。すると、ところが、答える方もまた、喩で答えてるわけです。そうすると、この種の言い方っていうのは、みなさんのご存じのあれで言えば、謎謎なんですよ。謎謎っていうのはそうでしょう。謎謎の問答っていうのは、こういう謎謎とかね、諺っていうのがあるでしょう。諺っていうのがあるでしょう。それはね、いつでもこういう言い方なんです。それで、これは古代においては、例えば、古代における古代の共同体っていうものに、世界である意味で共通なんですけれども、共同体で信仰を司る者っていいますか、信仰を司る者と共同体を政治的に、あるいは、行政的に司る者っていうのは、しばしば同じであるっていうことがあります。》

《そういう時代においては、ある諺、ある比喩、ある喩ですね。非常に普遍的に言えば喩なんです。謎謎、諺、喩ですね。そういうものを、解けるっていうことは、それがわかるっていうことは、信仰が非常に強固だっていうことを意味したわけです。同時に、それはその共同体を治める資格がある。能力がある、資格がある、そういう人だけが、謎謎、諺、そういうものをわかったんだと。それは、諺、謎謎がわかるとか、すぐにわかるっていうことは、それは、信仰が篤いことを、つまり、神の御託宣っていうのは、心っていうのは、すぐにわかるっていうことを意味しましたし、そのことは同時に、ある共同体を実際に政治的に治めるっていうことの能力があるってことを意味していたことがあるのです。それは、実際問題としてもあるのです。》

●で、ここでは何がやりとりされていたのか。次のように読み取られる。

()要するに、まず、子どもに飽かしむるべきじゃないか、っていうことは、俺くたびれっちゃってるんだっていうことだと思います。俺くたびれっちゃったもんで、静かに休んで祈るって思っているのに、いるところに、本当に祈って、つまり、少し精神を統一してさわやかにしようって思ってるのに、疲れっちゃったんだって、それなのにやってきて()、子どもが悪鬼に憑かれて治してくれって言うのはよくないよっていうふうに言ってるんだと思います。よくないことじゃないか、そういうのはよくないんだよって言ってるんだと思います。ところが、答えた母親の方が、いやそういうわけじゃないんだ。ただ子どもが、つまり、神の子たるあなたが、憩ってる、憩った時にも、なお、若干のゆとりはあるでしょう。つまり、食べ屑っていうのはあるでしょう。食べ残しの屑っていうのがこぼれ落ちるっていうのはあるでしょう。そのこぼれ落ちる、そのこぼれ落ちたものを、自分の子どもに与えて治してくれって言ってるんですよって、けっして、あなたの憩おうとしている、神と言葉を交わそうとしている、それを邪魔しようっていうふうに、邪魔してひったくっちゃって、こっちに奇跡をよこせって言ってるんじゃないですっていうふうに母親は答えたんだっていうふうに思います。つまり、そして、その答え方は、あっ、こいつはわかってるよっていうふうに、こいつはわかってるんだ。つまり、わかっているってことは言葉がわかっているんだと、言葉がわかっているっていうことは、比喩がわかっている、喩がわかっている。喩がわかっているっていうことは、信仰が全き信仰、つまりいい信仰を持っているんだっていうふうに思ったので、要するにそんなの治ったと同然だよ。治ったっていうふうに言ったんだっていうふうに思います。》

●ここでは、例え話が例え話によって返されているだけで、いわば、修辞的なレベルで「上手いことを言っている」だけに過ぎず、実質的には何も言われていないに等しいようにも思われる。しかしこの例え話の応酬によって、抽象的なレベルで何かが交換され、信仰が実証され、奇跡が実現される。ここで「喩」と呼ばれるのは、たんにレトリックではなく、レトリックとしか見えないものを媒介として交換されている、レトリックではない何かのことであろう。

実質的にはほぼ何の情報も交換されてはいない。それでもイエスは、自分が提示した例え話への反応として相手が提出した例え話によって、信仰の核のようなものを相手が理解していることを確信する。リテラルなレベルでは無駄な修辞のようにも見えるものによって、「理解への理解」のようなメタ情報が交換される。「魂」のようなものを垣間見ることが出来る。ここで言われている「喩」というのは、そういうものを示したり受け取ったりすることを可能にする媒介のことだと思われる。

リテラルに示すことが出来る何ものかの修辞的な言い換えではなく、「喩」としてしか表現できないものがあり、「喩」を介してしか交換できない何かがある。この時、「喩」は必ずしも言葉を介したものである必要はないと思われる。「喩」を(パース的な意味での)記号一般の問題として考える時、フィクションというものの意味を、また違った方向から考えることができるようになるように思われる。