2021-11-27

●北千住のBUoYで『うららかとルポルタージュ』(Dr. Holiday Laboratory)を観た。以下、まとまりのない覚え書き。

うららかとルポルタージュ – KARERA YAMAMOTO

●帰りの電車のなかで戯曲をパラパラ読んで、これをよくあの形にしたなあと思った。上演を観た後で戯曲を読んでいるのに、誰が「効果音」で誰が「警備員」だったのか、観たもの(人)と戯曲上の役名とがすんなりとは結びつかなかった。読んでいくなかで「化身」と「撮影者」と「作者」はなんとなく、だんだんわかるようになっていったが、長いこと「効果音」と「警備員」を取り違えたままだった。

●たんじゅんに、俳優の動きや発声がそれ自体で面白かった。音響が結構、圧倒的なのだが、俳優がそれに従属していないというか、あたかも音など聞こえていないかのように、それぞれのありように徹しているという感じ。個々の要素の作り込みの密度はとても高いのに、全体としての作り込みを放棄しているというか。いや、放棄はしていないかもしれないが、たかだか一度きり上演に立ち会うだけの一観客などに、この上演の全体像など把握できるはずないだろうという姿勢でつくられていることがすぐにわかるので、「重要なところを見逃してはならない」「狙いを正確に読みとらなければならない」という緊張が生じず、一つ一つの要素をリラックスして観られた。

●セリフの内容と、発声と、俳優の身体(動き)とが、それぞれバラバラに走っていて、それがルーレットのように組み合わせが変わっていくように感じた。そして、ルーレットのように、三つの流れが一致することもある。とはいえ、その感じも、俳優一人一人で違っている。「撮影者」は、常識的な意味で演劇的であるぎりぎりの線を保っているようにみえるが、「化身」や「効果音」はそうではないようにみえる。「化身」の動きは、常識的な意味での演劇からは遠いが、セリフと発声と動きのシャッフル度合いはそれほど高くないようにみえた。「効果音」は、常識的な意味での演劇からも遠く、セリフと発声と動きのシャッフル度合いも高いようにみえた。声としては「化身」の声が通奏低音(というか通奏高音)のように恒常的に響き(衣装の赤も目印のようにあり)、身体の動きとしては「効果音」を目で追うことが多かった。

●けっこう笑った。声を出して笑える空気ではなかったので、声を押し殺し、肩だけふるわせるように笑った。そもそも劇場のような場所で笑うのは、笑ってるアピール(笑う=ここが「笑うところ」だとわたしは理解できてますアピール)みたいになるので、「空気」と関係なく常に抑制ぎみにしているのだが。

●真ん中に大きな柱がある。この柱に対する態度も、それぞれの人物によって異なっているように感じた。最も強く柱の重力にとらわれているのが「警備員」で、「効果音」は、まるで衛星のように柱の重力圏をぐるぐる回っているようだ。「作者」は柱の影響をほとんど受けていないように感じた。そして、「化身」と「撮影者」は、柱よりもむしろ、地面に引かれた区画線を気にしているようにみえた。

●観客とはほぼ逆側の位置に置かれた(と想定される)カメラからの映像が流れる場面がある。これはリアルタイムで撮影された映像ではない。カメラがあるはずの位置を見てもそこにカメラはないし、リアルタイムの俳優の動きと微妙にズレたり、コマ跳びのようなことが起こったりする。この感じは黒沢清の『回路』などと近いのだが、まず、映像の由来としてのカメラがあるはずの位置に何もないというだけでかなり不気味なのだが、動きのタイミングがズレたり、コマ跳びが起きたりするところでかなりの衝撃がきた。時空の狭間のエアポケットにズドンと落ちたような衝撃。

●作品のありようとして、吉本隆明が「喩としての聖書--マルコ伝」で語っていたエピソードを思い出した。イエスが、ある地方に休息のために訪れた。しかしそこでも、悪魔にとりつかれた娘を治してほしいという母親がやってくる。イエスと母親は比喩を介して会話する。イエスは「子どものパンを取り上げて犬に投げ与えるのはよからず」と言う。ここで「子ども」はイエス自身を指し、自分の休息こそがまず必要で、その休息の時間(パン)をあなたたち(犬)に差し出すのはいいことではない、と。それに対して母親は、「然り主よ、食卓の下の小犬も子どもの食べ屑を食らうなり」と応える。つまり、子どもの食事を奪わなくても、テーブルの下にいさせてもらえれば、小犬はこぼれ落ちたパン屑を食べることができる、と。この応えを聞いたイエスは「汝、この言葉により安んじて行け」と言う。この、なぞなぞのような比喩のやりとりによって母親の信仰への理解の確かさをなぜかイエスは確信する。そして娘は直った、と。

なにが言いたいのか。この上演にとって観客というのは、パン屑を食べる小犬の位置にある。パンを食べるのは、つまりこの上演を十分に深く味わうことができるのは、なんらかの形でこの上演に深くかかわった人たちであり、たかだか一度か二度くらい上演に立ち会うだけの観客が得られるのは、せいぜいそこからこぼれ落ちるパン屑でしかない。だが、というかむしろ「だからこそ」と言うべきだが、そのパン屑が(娘を治療可能であるくらいに)それ自身としてとても面白いのだということがあり得る。パン屑からでも、その向こう側に非常に充実したパンが存在することが十分に感じられる。いやむしろ、パン屑こそが(もしかすると実在しないかもしれない)パンを作り出すのかもしれない。

(本来ならば、あらゆる作品がそうであるのかもしれないが、実際には、多くの作品は、パン屑としてあるものを、あたかも「あなた=観客」のために差し出されたパンであるかのように加工して提出される、ということか。)

(「本来ならば、あらゆる作品がそうであるのかもしれないが」ということを、ふと思わせるような力が、この上演のありようにはある、ということだと思う。)

わからないけど面白い、いやむしろ、わからないからこそ面白いのだ、という言い方はとても危険で、簡単に思考停止とレッテル貼りに結びつく。しかしそれでも、そのような言い方に一定の意味があるとすれば、パン屑の向こう側に充実したパンがあることが十分な確かさで感じられるが、そのパン本体について的確に言語化することができないという状態は十分にあり得るからだ。パン屑から想定されるパンの存在が大きく、充実していればいるほど、それはそう簡単にはつかめない。つかみきれないものをつかもうとしている時間に、頭と体がもっとも働いている。

(「面白い」と感じている時点でそれは「わかっている」ということで、「わからないけど」を付け加える必要はない。しかしその「わかり方」の深さや広さはそれぞれということだろう。そして、完全に、全体的に「わかっている」ということはあり得ない、というようになっている。)

そして重要なのは、パン屑の向こう側に想定されるパンは一つではないということ。演出家にとってのパン、劇作家にとってのパン、俳優たち一人一人にとってのパン、音響や美術スタッフにとってのパン等々…、かかわり方やかかわりの深さによって、それらはある程度は重なりながらも、それぞれ異なっているだろう。

●今まで書いたことと矛盾するようだが、それがすでにパン屑でしかない以上、どのパン屑もそれとして一つの全体であって、なるべく多くのパン屑をひろいあつめて比較したり、さらに足りないところ(欠けているピース)を補って、その向こう側にある「全体としてのパン」の図を描き出そうとする(パンを再構成しようとする)必要はない、ということも、この上演にとってとても重要なことではないかと思う。

パン屑としての広さや密度や深さに違いはあるとしても、そのパン屑のすべてがすでに全体である。統合が目指されていない、さまざまな要素が並立的にバラバラにある、観客席の位置によって見えることと見えないことが違ってもかまわない。これらのことは、たんに出来事が同時多発的でバラバラであるということではなく、それらのどの要素もそれ自体として全体であり、複数の要素の重なりによってふいに(偶発的であるかのように)生じては消える都度都度のパースペクティブもまた、どこで生じたどのパースペクティブもすでにそれ自体で全体である、ということなのではないかと思う。

あらゆるパン屑がそれ自体として全体であるということは、どこにも特権的な正しいパン屑はないということで、さらにいえば、特権的なパンもどこにもないのだから、確かにパン屑とパンとでは深さや密度や強度が異なるとはいえ、(それは度合いの差異であって)パン屑に対してパンが必ずしも優位にあるとも言い切れない。

●あらゆるパン屑、あらゆるパンがそれ自体として全体であり、自律的であるとしても、それら多数のパン屑群、パン群たちは、それが『うららかとルポルタージュ』という作品に由来することによって何かしらを共有しているはずであり、それらはゆるやかに連帯し、互いに何かしらを反射し合い交換し合い得るネットワークをつくりだす、のではないか。